濃尾地震の記憶<愛知の歴史災害③>
★愛知県内には、近代日本が遭遇した初めての巨大地震「濃尾地震」の様子や教訓を石碑やモニュメントに刻み、後世の私たちに遺してくれている場所が沢山あります。 熊本地震を経験して 平成28年4月14日21時26分、熊本地方を震央とするマグニチュード(Mj)6.5の地震が発生(前震...
三河地方に残る鎌倉街道の面影<三河国土学⑦>
★東部(豊橋市域)や西部(安城・知立・豊田・刈谷)など、三河国内には、鎌倉街道にまつわる史跡や街道の面影が残されている区間がいくつかあります。 鎌倉街道とは? 過去のブログ(全3回)にて、近世(江戸時代)の東海道と三河地方にあった七つの宿場町(二川、吉田、御油、赤坂、藤川、...
宝永地震の記憶<愛知の歴史災害②>
★渥美半島の太平洋岸では、かつて海岸近くの伊勢街道沿いに栄えていた寺院や神社、集落の多くが、宝永地震津波を教訓にして、高台(海食崖の上)に移転しています。 切迫性が高い状態にある「南海トラフ地震」 南海トラフ地震は、駿河湾から日向灘沖にかけてのプレート境界(フィリピン海プレ...
伊勢湾台風の記憶<愛知の歴史災害①>
★愛知県内には、伊勢湾台風の様子や教訓を石碑やモニュメントに刻み、後世の私たちに遺してくれている地域(箇所)が沢山あります。過去の災害の教訓を正しく知ることが、災害への「備え」を充実させ、今後の被害軽減を導くことになります。 大規模自然災害頻発国「日本」...
西三河の東海道を歩く<三河国土学⑥>
★藤川宿、岡崎宿(城下町)、池鯉鮒宿には、程度の差こそありますが、江戸時代の宿場町景観が残されており、往時の風情を感じることができます。 西三河の東海道 江戸時代の東海道は、現在の一般国道1号(国土交通省管理)に沿ったルートで、東三河には、二川、吉田、御油、赤坂の4つの宿場...
矢作川の舟運と「塩の道」<三河国土学⑤>
★三河湾で取れた三州塩は、矢作川や支川・巴川を舟で遡って古鼠/平古で荷揚げされ、そこから足助街道と飯田街道を通って信州へと輸送されました(塩の道)。 矢作川の舟運 徳川家康による矢作新川の開削によって、河口部に港(湊)が開かれ、矢作川は岡崎を中心とする西三河地方と信州を結ぶ...
矢作川下流支派川改修の歴史<三河国土学④>
★矢作川下流域支派川では、中近世から河川改修事業が実施されてきました。 第31回から第33回まで、矢作川に関連する話題を取り上げてきましたが、ここで改めて矢作川下流支派川の河川改修の歴史を再整理しておこうと思います。 【室町時代以前】...
近世・西尾のインフラ整備<三河国土学③>
★吉良荘があった西尾市には、家康公や吉良氏が郷土・三河に働きかけてくれた成果(功績)が現在も残されています。 吉良荘と西尾祇園祭 矢作川の河口に位置する西尾市は、かつては吉良荘と呼ばれ、鎌倉時代から戦国時代まで約340年間にわたり、この地の地頭職を務めた清和源氏足利氏の流れ...
岡崎城主・田中吉政のまちづくり<三河国土学②>
★わずか10年間の岡崎治世でありましたが、城下町建設、街道再編、矢作川築堤、矢作橋建設など、田中吉政がデザインしたまちづくりは、現在も確実に受け継がれています。 戦国大名・田中吉政 田中吉政は、羽柴家(後の豊臣秀次→秀吉)に仕えた武将で、1590年(天正15年)徳川家康が関...
西三河を育んできた矢作川の流れ<三河国土学①>
★『徳川家康』『世界のトヨタ』『日本のデンマーク』など、矢作川の流れは西三河地域を歴史的に形作り、わが国発展の礎となる人や産業を育んできました。 尾張・西三河・東三河 以前のブログ(三河国一宮「砥鹿神社」に詣でる<穂の国「東三河」①>)で、愛知県は「尾張」地方と「三河」地方...