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世界かんがい施設遺産『幸野溝・百太郎溝水路群』

★江戸時代中期、人吉藩や領民の長い年月を掛けた努力によって完成した灌漑用水「百太郎溝と幸野溝」は、領内の農業(米作)生産性を向上させた。今回の「世界かんがい施設遺産」登録が、人吉球磨地方の農業の活性化や観光産業の発展のきっかけになればと思う。

 日本遺産「人吉球磨」には、41の文化財が位置づけられているが、その中の一つに、人吉球磨領内の米生産を支えた長大な灌漑用水「百太郎溝と幸野溝」がある。現在も人吉球磨盆地の農地を潤しているこれらの灌漑用水は、いずれも江戸時代中期につくられた農業基盤(インフラ)で、人吉藩やその領民により、長い年月をかけ、難工事の末に完成したものである。「百太郎溝と幸野溝」の整備によって、人吉藩内の農業生産は大幅に向上した。  なお、現在の百太郎溝と幸野溝は、市房ダム(多目的ダム)と関連した大規模な県営球磨川南部土地改良事業(昭和33年着工)によって本格的改修がなされ、コンクリート製の近代的な水路へと生まれ変わっている。


 百太郎溝と幸野溝(日本遺産人吉球磨:公式サイト)↓

【百太郎溝】 「今から約320年前の1680年、相良頼喬公の頃、暴風雨や洪水が多発し、米価が騰貴するなどしたため、主食米増収のため開田の必要に迫られていた。  百太郎堰は、球磨川の水を取り入れ多良木町・あさぎり町を経て錦町まで、本流だけで約19km、かんがい面積1,490ha余りに及んでいる。この本流の工事は、鎌倉時代に始まり、何度も受け継がれ、子どもから老人まで一丸となって協力し、人力の限りを尽くしたと言われている。  現在は、水田のほか防火用水としても利用され、地域住民の生活になくてはならないものとなっている。」(以上、『疏水名鑑』より)

(球磨川の取水口近くの「百太郎溝」)

(百太郎溝地区と幸野溝地区)

(百太郎溝取入口旧樋門)

 百太郎公園内にある案内板には、次のような説明書きがある。 「百太郎溝取入口旧樋門(昭和36年7月18日町指定史跡) 百太郎溝旧水路の取入口の樋門に使用されていた主な石材を使用して、現在の場所に復元されました。旧水路取入口は、現在の取入口より約200メートルの下流に構築され、現在では球磨川左岸の雑木林の中に旧水路の跡が認められます。堰止め灌漑用水として利用しようとの計画は鎌倉時代からありましたが実際に施工が始まったのは1680年代(江戸時代の初期)といわれています。口碑伝説によると今から310年前・・・1680年相良寄喬公の頃、人々は不況と恐慌に喘ぎ主食米増収のため開田の必要に迫られていた。百太郎堰構築の計画は、第一期工事から第五期工事までにわたり錦町の高桂川まで掘削された。その工事の内容は、子供から老人まで一丸となって協力して人力の限りを尽くしたという。堰構築も幾度となく行われたが洪水期を迎えるとひとたまりもなく崩壊し、ただ人々の失望を深めるにすぎなかった。ある時、庄屋の夢枕に水神様が立ち「袴(着物)に横縞のつぎをあてた男を人柱にたてよ」とのお告げがあり、“百太郎”がその犠牲となり大石柱の下に生き埋めされる事になった。本人の嘆きも、家族の悲しみもこの事業の前に踏みにじられ神の意思の前に理屈はなかった。土に埋められる様を誰一人見ることはできなく、唯合唱念仏の声とすすり泣きの声が次第に大きくなり轟々とひびいた。百太郎堰の完成は、宝永7年8月20日(1710年)と記され、灌漑用水路として上中球磨地方の耕作面積拡大の誘引をなし、1500ヘクタール余りを有する百太郎溝で生活基盤の安定を図るとともに経済発展の基礎をなしています。」

(「百太郎溝取入口旧樋門」案内板)

【幸野溝】  一方、幸野溝については、「今から309年前、当時の相良藩にとって財政のたて直しのため新田開発が極めて重要な問題であった。そこで元禄9年(1696)相良藩主の命をうけた相良藩士高橋政重(当時47才)は、幸野溝開削に着手し、幾度の困難に直面したが、10年を経た宝永2年(1705)政重と村人たちの血のにじむような努力によりついに「幸野溝」は完成した。  現在は、昭和33年市房ダムの建設により取水樋門及び水路の改修が行われ、延長15,412m暗渠 (隧道)の総延長2,524m、かんがい面積1,387haで組合員数1,592名、湯前町、多良木町、あさぎり町の3町を受益している。又、水田はもとより、防火用水など住民生活の一部となって」いる。(以上、『疏水名鑑』より)

 水土里ネット幸野溝(幸野溝土地改良区)HP↓ http://www.kounomizo.jp/

(幸野溝)

(幸野溝)

【道徳教育用郷土資料『熊本の心』から】  幸野溝と相良藩士・高橋政重の物語は、本県(熊本県)の道徳教育用郷土資料『熊本の心』において、『幸野溝』というタイトルで採録されている。 『幸野溝』-小学校5・6年- 「せきが切れたぞ。」 「家が、家が流されるぞう。」 というさけび声に続いて、何やらわめきながら走る人々の足音が、降りしきる雨の音にかき消されていった。その中で、 「今度こそだいじようぶだと思っていたのに。」  高橋政重はこうつぶやきながら、ぼう然と立ちすくんでいた。二度の工事も球磨川のこう水で、またしても失敗に終わったのである。

 今からおよそ三百五十年前のことである。人吉のとの様は、領地の村々を豊かにするため、家来の政重にいな作ができそうな土地を採させた。  政重は、あちらこちら調べて回リ、上球磨の中に、よく肥えているが、まだ開かれていない広い土地を見つけた。しかし、ここを水田にするためには、何よリも必要な水が足りない。そこで、広い溝をほって球磨川から水を引く計画を立ててその工事に取りかかった。人々も、豊かに実る水田を夢見て、喜んで工事に協力してくれた。  しかし、いもご層という火山灰の土に吸いこまれて、切り開いた溝には、ほとんど水は流れてこない。村の人は、だまされたと言ってさわぎ、役人の中には政重を非難する声が出てきた。  政重は、初めから水路を調べ直し、三年かかってようやくこの溝を完成させた。ところが、大雨が降ると、せきが切れてせっかくの溝はくずれてしまった。政重は、泣いても泣ききれない思いだった。  けれども、いつまでもなげき悲しんではいなかった。計画を立て直し、前よりもうんと強いせきを作リ、こわれた水路を二年かかって仕直した。  ところが、今度こそだいじようぶと思っていたそのせきが、また大雨でひとたまりもなくおし流されてしまったのである。政重がぼう然と立ちすくんだのも無理はなかった。  その上、いつも政重を理解してくださったとの様もなくなっている。もう政重のほかには、だれひとりとして工事のやり直しをロにする者はいなくなった。二度めの工事に期待していた人々も、あきらめてよその土地へ移っていく。役所からも、工事のお金が出なくなる。さすがの政重も、と方にくれる毎日であった。  この時、くじけようとする政重の気持ちを支えてくれたのは、球磨川を切り開いた林正盛についての思い出であった。  政重が少年のころである。流れが激しく、いたる所に大きな岩が立ちはだかる球磨川を切り開いて、見事に舟の通る川にしたのは、人吉の林正盛であった。少年政重は、球磨川を下る舟を見ながら、「林正盛という人は、なんというすごい人だろう。数々の難しい工事を乗りきって球磨川を開いた。おかげで人の行き来も、荷物の運び出しも便利になった。自分もいつかはこのような人の役に立つような仕事がしてみたい。」 と、深く感じたのだった。そのときの思いが四十年後の今、政重の胸に再ぴよみがえってきた。 「よし、もう一度やってみよう。ここでやめるわけにはいかない。あの時の感激に対しても。また、今まで自分を、信じてカを貸してくれた人たちに対しても。そうだ、命をかけてやってみるのだ。」  こう思うと、くじけかけた心に勇気がわいてきた。次の日から村々を一けん一けんたずね、この工事の大切さを説明して回った。村人は、話を聞くなり、またかとそっぽを向いたが、政重はそれに負けなかった。村人もその熱心さに打たれて、カを合わせてくれるようになった。  そして三年後、ようやく工事に必要な資金が集まると、三度めの工事が始まったのである。  今度も困難な工事が待ち受けていた。それは、古城台地の下にトンネルをくりぬく「新貫」の大エ事であった。これまでの古いトンネルより、うんどじょうぶで、真っすぐなトンネルをほるのである。今のように機械がなかった時代である。厚く、固い岩石のかべをつちと石のみでくりぬくのは大変な仕事だった。いつ上の岩が落ちるか分からない。実際、事故が起きた後は、人々はトンネルの中に入ろうとさえしなかった。そんな時、政重は、あの球磨川の「亀石」を打ちくだいた林正盛の苦心を思い出すのだった。  政重は、いつも人々の先頭に立って働いた。ついに、苦しみを乗りこえて、見事にこの大工事を完成させる日がやってきた。その日まで、工事を始めてからいつしか、九年の月日がたつていた。  球磨川の水が、開かれた水門を通リ音を立てて流れこんだしゅん間、人々のかん声の中で政重はじっと水の流れを見つめていた。

 今も、約千四百ヘクタールの土地をうるおしている幸野溝のたん生だった。 -・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・--・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・  江戸時代の人吉はお米が育ちにくい土地で、村人たちは困っていた。人吉のとの様に仕えていた高橋政重は、球磨川の水を止め、田んぼに水を流す溝を作る計画を立て、四十七歳の時に工事を始めた。とても大きな工事だったので、さまざまな苦労をしたが、溝は完成してもニ回もこう水でこわれてしまった。村人たちはあきれ、仲間からは笑われたが、高橋政重は「一人でもやリとげる。」と決心した。そして、もう一度村人を呼び集め、十六キロの長さの溝と、五十の橋などを完成させた。村人たちは大喜びしたそうだ。この溝は、今も人吉の広い田んぼに水を流している。

※「球磨川を切り開いた林正盛」の物語(ノンフィクション)は、次回以降、あらめて紹介します。

(道徳教育用郷土資料『熊本の心』から)

【「世界かんがい施設遺産」登録】 平成28年11月8日、『幸野溝・百太郎溝水路群』が「世界かんがい施設遺産」に登録された。世界かんがい施設遺産は、かんがい農業の発展に貢献し、技術的にも優れた水路やせき、ため池などを保存するのが目的で設けられた制度で、建設から100年以上の施設が対象。熊本県内では2014年度の「通潤用水」(山都町)に続いて2件目の登録となる。  今回の『幸野溝・百太郎溝水路群』の「世界かんがい施設遺産」登録が、人吉球磨地方の農業の活性化や観光産業の発展のきっかけになればと思う。

(今回の舞台)

(2017年3月12日)

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