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御船の元禄・嘉永井手と八勢目鑑橋

★「大矢野原の水引きて 美田つくりし光永氏 八勢に目鑑の橋架けて 通路開きし林田氏」江戸時代の後期、肥後国各地で盛んにインフラ整備が行われたが、その中心として惣庄屋や豪商といったプレーヤーたちが重要な役割を果たしていた。

【元禄・嘉永井手】 日向往還が通る地域一帯は、阿蘇南外輪山の頂上付近を源とする緑川支流となる河川によって形成された比較的開発に適した平坦地が多くみられ、近世以降の国土への働きかけの成果が幾つも遺されている。その一つが御船の「元禄・嘉永井手」。  「上益城郡御船町の北部と東部は山間地で、特に旧木倉手永は河川水は豊かであるが、河谷が深くて水がかりが悪く水田耕作には不向きである。そこで近世の惣庄屋たちは自領内の生産力を高めることに勤めた。その中でも江戸時代初期の惣庄屋木倉(吉田)太郎兵衛は元禄井手をつくり、江戸後期に出た惣庄屋光永平蔵は嘉永井手を完遂させて水田化をはかった。  元禄井手は吉無回水源の下流九十九折と矢部手永北中島村から取水して中畑川で合流させ、約一キロ下流の上田代村杉園で再度取水している。この井手の完通で上田代村・南田代村・西上野村の三か村民は稲作の技術を得て米食の恩恵をうけることになった。  木倉太郎兵衛の功業として、木倉手永内の出高開明のか所を探し出し、寛永年中(一七世紀前半)から延宝・天和の頃(一七世紀後半)の間に辺田見村他九か村の未開地を開明して、田畝一〇三町(一〇三ヘクタール)余の田地を創り出している。  このような水利土木事業で有名なのは嘉永井手である。この井手は上田代村杉園で取水し二二か所のトンネルを経て元禄井手と合流させ、西上野村に通水し、木倉村・滝尾村まで延々二八キロの大事業である。この工事で最大の難工事は、四八〇間(八七三メートル)におよぶ九十九折トンネル穿さくであった。上下方両方から穿さくしはじめ、昼夜兼行で七か年の星霜を経て、安政六年(一八五九)に全通した。木倉手永村々の百姓らが動員され、特に上田代村・南田代村・西上野村は村総出であったという。この工事の経営費等は不確実であるが、当時の郡代上妻半雪の「申残覚」によれば、総工費七四〇貫となっている。  嘉永井手づくりに貢献した人物として楠田順喜がいる。順喜は文化一四年(一八一七)に南木倉村宗心原にて父柳太郎(宗氏)の子として出生した。天文・測量の師範池辺啓太から数学や測量学の指導をうけ、嘉永三年(一八五〇)に村々井手見歩役となり、嘉永井手の計画がはじまると設計・測量・工事監督一切を惣庄屋木倉(光永)平蔵から任されることになった。三年七か月の間測量機器を背負って山野をめぐり、二八キロの用水井手は完遂したのであった。  八七三メートルのトンネル工事は圧巻だったといわれ、トンネル中央部で上下一メートルの高低差で出会ったという。当時の技術水準からすればまさに圧巻であったといえよう。その功が償されて慶応元年(一八六五)六月阿蘇郡野尻手永惣庄屋に抜摺されている。光永平蔵と楠田順喜この両者の呼吸の一致こそがこの大事業の完成につながったものといえよう。御船町では元禄・嘉永井手の恩恵に感謝する為の祭礼や頌徳碑が各地にのこっている。」(岩本税・島津義昭・水野公寿・柳田快明 (著)『新〈トピックスで読む〉熊本の歴史』弦書房 (2007/7/15)から抜粋)

※手永(制)と惣庄屋・・・江戸時代に細川家がその領地に導入した行政制度。領内を「手永」と呼ばれる行政区画に分けて村を束ね、責任者として惣庄屋を置いた。 ※井手・・・用水路

【八勢目鑑橋】  いま一つが御船の「八勢目鑑橋」。八勢の大谷(八勢川)は、現在の石橋(八勢目鑑橋)が架けられるまでは「日向往還最大の難所」と呼ばれていた。谷の傾斜はひどく、長雨になると川は激流となり、人馬が足を滑らせ転落し命を落とすことも度々あったといわれている。

そして、これをみかねた御船の豪商・林田能寛が私財を投じ、住民の安全を守ろうと、安政2年(1854年)に八勢目鑑橋を完成させ、以来人馬の犠牲は無くなったという。

八勢目鑑橋・石畳(御船町観光ホームページ)↓


【嘉永井手と八勢橋 繁栄運んだ2大事業】  熊本日日新聞は、平成18年(2006年)3月7日の朝刊で、『嘉永井手と八勢橋(御船町田代、上野)繁栄運んだ2大事業』というタイトルの特集記事(点景・日向往還(6))を掲載し、この2つのインフラ整備(公共事業)を行った先人達の徳を称えている。  「大矢野原の水引きて 美田つくりし光永氏 八勢に目鑑(めがね)の橋架けて 通路開きし林田氏  御船町の東部、旧七滝村の村歌。幕末、地域の発展と救民に尽くした二人の篤志家の功績をたたえている。  御船地方の惣庄屋だった光永平蔵は、御船川に橋を架けるなど数々の公共事業を手掛けた。その筆頭が嘉永井手の建設。  水源に乏しい東部の台地には、吉無田高原から水を引く元禄井手があったが、水量不足。光永は上流の別の川から水を引いて井手を延ばし(嘉永井手)、ようやく水不足が解消した。  元禄・嘉永井手の総延長は約五十キロ。今も農業用水路として、県道となった日向往還沿いに豊かな水をたたえる。  嘉永井手建設には七年を要した。特に九十九折(つづら)トンネルは八百七十メートルの岩山をくり抜く難工事。『かんがい面積も工事の難度も、矢部の通潤橋に並ぶ大事業だった』と、郷土史家の奥田盛人さん(85)。  同じころ、往還の難所だった八勢川に目鑑橋を架けたのが御船の豪商林田能寛。長さ六十二メートル、幅四メートルの石橋は県重文。約五百メートルの石畳が続き、沿道の岩肌には、石を切り出したノミ跡も残る。  架橋に巨額の私財を投じ、明治には私学校「文武館」も開設。地元では毎年四月に「能寛祭」を催し、遺徳を語り継いでいる。」

江戸時代の後期、肥後国各地で盛んにインフラ整備(井手や溜池の設置、新田開発、石橋架橋など)が行われたが、その中心として惣庄屋や豪商といったプレーヤーたちが重要な役割を果たしていた。熊本県内に残るインフラの多くは、この時期に整備されたものである。

 シリーズ 熊本偉人伝 vol.22「林田能寛、光永平蔵」(旅ムックHP)↓ http://tabimook.com/kuma/sentetsusha/

【追補:熊本地震では・・・】 平成28年熊本地震により、御船町東部を流れる農業用水路「元禄・嘉永井手」も、八勢川に架かる日向往還の要「八勢目鑑橋」も大きな被害を受け、本来の機能を果たせない状況にある。

 熊本地震で被災した「めがね橋」/八勢橋(御船町)(日本の石橋を守る会)↓ http://www.ishibashi-mamorukai.jp/members/kmtjisin.html

(嘉永井手)

(上野の守護神社境内にある嘉永井手建造顕彰碑)

(九十九のトンネル水路入口:熊本地震による被害で通水不能)

(「史跡 九十九のトンネル」碑と説明文)

-この用水路は元禄井手の水不足を補強するため開削された嘉永井手という。水源は吉無田水源より取水した清水井手(改修して元禄井手という)の下流と、山都町境を流れる尾多良川、さらに大矢野原より流れる亀谷川の三渓流を合わせて873メートルのこのトンネルを貫流して矢形川の源流と合流させ、上田代の杉園堰より取水して南田代の屋敷部落で元禄井手と合流させて豊かな水勢となし、南田代から西上野を経て滝尾、木倉の一部に至る。  総延長28キロメートル、受益面積は300ヘクタールに及んだ。この難工事を直接担当した当時の上益城郡代上妻半右衛門、木倉郷総庄屋光永平蔵、測量設計と工事管理者楠田順喜以下の役職者と難工事に完遂した石工久五郎をはじめ労役に苦しんだ村人たちの功績が痛切にしのばれる。-

(八勢目鑑橋:熊本地震による被害で通行不能)

(八勢之目鑑橋之記)

(今回の舞台)

(2017年2月12日)

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