top of page

『宝暦萩原堤』と稲津弥右衛門の物語

★地域の人々が「あのや 稲津様は 仏か神か 死ぬる命を 助けさす」と歌い、稲津弥右衛門の功績をたたえたと伝えられている球磨川・萩原堤防。現在此の地では、景観に配慮した堤防補強工事が進められている。

【球磨川下流右岸・萩原地区で進められている堤防補強工事】  JR肥薩線が並走する萩原地区の堤防(球磨川下流右岸、球磨川橋梁から新萩原橋あたりまでの区間)は、背後に八代市街部を抱えるとともに、山間狭窄部の出口で大きく湾曲する水衝部に位置している。現在、この萩原堤防では、景観に配慮した堤防補強工事が進められている。

 萩原地区堤防補強対策(八代河川国道事務所HP)↓ http://www.qsr.mlit.go.jp/yatusiro/river/anzen/hagiwara_kasyou.html

 萩原堤防のデザインについて(八代河川国道事務所HP)↓ http://www.qsr.mlit.go.jp/yatusiro/site_files/file/river/utsukushi/kankyodesign/08_shiryo1.pdf

(萩原堤防の風景)

(萩原堤防の風景)

(堤防補強工事が進められている) 

(萩原堤防道路と並走するSL人吉)

(萩原堤防道路と並走するヤマセミ)

【萩原堤の歴史】  球磨川の本格的な治水は、初代肥後熊本藩主・加藤清正公の時代に始められた。萩原堤(萩原堤防の原型)も、清正公が八代城代・加藤正方に命じて築かせたと伝えられる。  八代の生命線ともなる塘や堤の中でも、萩原堤は特に堅固に築かれた。それはこの地点が、南から北に流れてきた球磨川が急に東西に涜れを変える曲折点に位置し、水勢が強いからである。現在の萩原堤防は戦後改修されたものだが、その原型は当時と変わらない。

 古の萩原堤(「くまがわ百景」八代河川国道事務所HP)↓ http://www.qsr.mlit.go.jp/yatusiro/site_files/file/river/fukei/fuyu02.pdf

【宝暦大出水と稲津弥右衛門による堤防復旧】  萩原堤は、宝暦五年(1755)の球磨川大洪水で10町余(約1km)にわたり決壊したが、八代郡目付・稲津弥右衛門の陣頭指揮により短期間で復旧し、天端幅約13m、基礎幅約45m、水面からの高さ約9mの堤防に生まれ変わった。人々は「あのや 稲津様は 仏か神か 死ぬる命を 助けさす」と歌い、弥右衛門の功績をたたえたと伝えられている。  なお、この稲津弥右衛門の伝記は、本県(熊本県)の道徳教育用郷土資料『熊本の心』に、『宝暦萩原堤』というタイトルで採録されている。  萩原堤防・遥拝堰(土木遺産in九州-TOPページ)↓ http://dobokuisan.qscpua2.com/search-list/04kumamoto/25hagiwarateibou/

 萩原堤(熊本県総合博物館ネットワーク・ポータルサイト)↓ http://kumamoto-museum.net/blog/archives/chiiki/1248

 球磨川下流域の土木治水史について↓(8~15ページ) http://www.qsr.mlit.go.jp/yatusiro/site_files/file/river/utsukushi/kankyodesign/02_shiryo1.pdf

【道徳教育用郷土資料『熊本の心』から】 『宝暦萩原堤』-小学校5・6年-  八代市の地図を見ると、東は山、西は海、その間が平野になっていて、山手から球磨川が流れています。この川のめぐみに感謝して、毎年八月、八代市では、にぎやかな「球磨川祭リ」が開かれています。けれども、この川は時には暴れ川となって、ひどい災害を起こすこともあリました。  今からおよそニ百五十年前の宝暦五(一七五五)年、六月一日から雨が降リ続き、九日目にはその雨はいっそうひどくなりました。球磨川はみるみるうちに水かさを増し、大きなうずを巻きながら萩原堤におそいかかり、これを打ちごわしたのです。この大雨で、多くの村や田畑が水につかるなど、八代城下から千丁の方まで大きな災いをもたらしました。流された家ニ千戸、死傷者も五百人をこえるという大水害となリました。  あちらこちらで、 「家は流されてあと形もない。田畑には石ころが転がっていて、まるで石原じゃ。」 とすわりこんでいる人もあれば、 「うちはまだ、おやじどのの行方が分からぬ。」 と探して歩く人もいる有様です。町や村には毎日地ごくのような場面がくり広げられていました。  それを小高いおかの上に登って、いたましい思いで見ていたのは、稲津弥右衛門という役人でした。 「なんというおそろしい水のカだろう。あの町も、この村も、すっかり変わってしまった。堤をこのままにしておいて、今度また大雨でも降ろうものなら、また大水害になってしまう。どうしたらよいものか。」  弥右衛門はじっと考えていました。 「それには二度とくずれない堤を早く造ることだ。その仕事は失敗したらおわびのしょうがない。しかし、だれかがやらねばならない仕事だ。」  ここで弥右衛門は、固く心に決めました。  その時のとの様、細川重賢公は萩原堤を築いてくれる人を求めていました。この堤は、そのころから百三十年ほど前、加藤正方という人が築いたものでした。正方はすぐれた武士でした。その正方に負けないような人を見つけなければなりません。大変な仕事なので、だれにしてよいかなかなか決まりません。  弥右衛門はとの様の前に出て、 「今は、ぐずぐずしている時ではありません。一刻も平く萩原堤を築き上げなければなりません。その役目はどうか、この弥右衛門にさずけてください。」 と申し出ました。との様は、弥右衛門が強く決心して申し出ていることがよく分かりました。  そこで、 「弥右衛門、立派な覚ごだ。工事はおまえに任せよう。」 と、その願いは聞き届けられました。  弥右衛門は、もう工事の計画をしっかりと立てていました。  この話は、八代の町や村に広がりました。人々は、弥右衛門がだれもやろうとはしない堤防工事を引き受けたことに感激しました。  工事が始まると村の人たちは、手伝いにおしかけてきました。工事の見回りをする弥右衛門の姿を見て、 「あのや 稲津様は 仏か神か 死ぬる命を 助けさす。」 と歌を歌って仕事にはげみました。工事は、水の流れをゆるやかにするためにカーブにした堤防を大きく厚く築くものでした。また、松の木の丸太を上流から流し、それが堤防に当たったところに水をはね返す「はね」をつけるというような工夫もしました。こうして、苦心の末、堤防は完成しました。  多くの人々の喜びの声でわきました。そして、老人から子どもまで心から弥右衛門に感謝しました。との様も、家来たちの前で、 「あのや 稲津様は 仏か神か 死ぬる命を 助けさす。」 と歌ったということです。 -・-・-・-・-・-・-・-・-・- 「神様か仏様のようだ。」と言われた稲津弥右衛門は、江戸時代、熊本のとの様に仕えた役人だ。誠実で、悪い役人をこらしめたり、との様に熊本が豊かになるような意見を言ったりして、政治が乱れないように自分の仕事をがんばっていたそうだ。大雨が降って球磨川の堤防がこわれた時は、お礼のお金をたっぷり用意して、多くの人を集めて働いてもらった。苦しんでいた人には食べ物を配った。そして、自分も川の中に入ってみんなを応えんして、たった七日間で二~三キロの堤防を直すことができた。その時村人が作った感謝の歌は、ずっと歌いつがれた。

(今回の舞台)

(2017年4月2日)

最新記事
アーカイブ
​カテゴリー
​熊本国土学 記事一覧
bottom of page