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熊本県(肥後国)の起源、「火の国」と野津古墳群

★氷川町にある「野津古墳群」は、当時、この辺りで最も権力を持った「火の君」一族の墳墓である可能性が高いと考えられている。

 現在の熊本県の地域は、「火の国」→「肥の国」→「肥後国」→「隈本」→「熊本」と、その名称を変えてきた。 「火の国」の由来については、「阿蘇山の火」説、「八代海の不知火」説、「氷川町の氷川(火川)」説などがあるが、一般的には、古墳時代のこの地域(火の国)最大の豪族「火の君」に由来するといわれている。  『肥前風土記』によると、崇神天皇の御代、益城の土蜘蛛(天皇に恭順しなかった土豪)が天皇に背いたので、天皇が健緒組(たけおぐみ)に命じてこれを討たせた。その後、健緒組が国内巡視して八代郡の白髪山に着いたとき、夕暮れ空に火が燃え上がるのを見て、驚いて天皇に報告した。天皇は「火の下る国であるから火の国というべし」といわれ、健緒組に火の君の姓を賜ったとある。  また、『日本書紀』によると、熊襲(九州南部に本拠地を構えヤマト王権に抵抗したとされる人々・地域)征伐後に葦北より不知火海(八代海)を北上した景行天皇一行が、不思議な火に導かれて到着した場所が八代県豊村(現・宇城市松橋町豊福)または火邑(ひのむら;現・氷川流域の村)であり、火の光の主を問うと、主は不明で、人の火ではなかったので、その国の名を「火の国」と名付けたとある。  こうした史料に出てくる「火の国」を治めたのが「火の君」であり、全盛期には肥前国(佐賀県・長崎県)の地域も支配。ヤマト王権(継体朝)と闘って敗北した筑紫君磐井の乱後も、「火の君」は勢力を保ち続けていった。  そして、この「火の君」一族と関係が深いと考えられているのが、氷川町の「野津古墳群」や「大野窟(おおののいわや)古墳」。九州山地西麓部・標高90~110mの丘陵上に立地する。 特に、野津古墳群は、古墳時代後期(6世紀初~中頃)としては珍しい墳丘の長さ60~100mの前方後円墳(物見櫓古墳・姫ノ城古墳・中ノ城古墳・端ノ城古墳)が4基も並んでいる(他に例を見ない)ことから、当時、この辺りで最も権力を持った「火の君」一族の墳墓である可能性が高いと考えられている。


 史跡・名勝(氷川町)

古墳(特に、巨大古墳)は、当時の巨大な権力と優れた土木技術の存在を我々に示してくれる。「古墳の技術は、溜池や条里と同質の技術体系の上に成立した。すなわち、土の運搬・盛土、方位・距離・角度などの決定、土工量・労働量等の算定、鉄器の導入などである。こうした技術は大陸から伝えられ、朝鮮から渡来した技術者とともに、古代の土木技術の大躍進をもたらしたものと考えられる。」 http://suido-ishizue.jp/daichi/part3/01/02.html

 教科書(中学歴史教科書)でも、古墳建設と大和朝廷の国力に関して、育鵬社では、「世界最大の墓・大仙古墳(仁徳天皇陵)」というコラムを設け、「大仙古墳は全長486m、高さ35m、三重の壕を含めた総面積は約46万㎡という巨大な墓です。土の総量だけでも10トントラック25万台分といわれ、1日2000人が働いたとしても、約16年もかかる大土木工事でした。この時代に、これほどの大工事を完成させた大和朝廷の国力と技術は驚くべきものです。」と、古墳建設がいかに大規模土木工事であったか、大和朝廷の国力と技術力がいかに卓越していたかを定量的に説明している。

 10月30日、今年で7回目となる「道の駅」竜北ウォーキングが開催された。快晴の秋空のもと、氷川町内外の参加者約400人が、国指定史跡・野津古墳群や大野窟古墳、秋山幸二ギャラリー、町つくり酒屋などのポイントを巡り、ウォーキングを通じて交流を深めていた。

(野津古墳群のある丘陵地から不知火海(八代海)を臨む)

(国指定史跡・野津古墳群)

(国指定史跡・野津古墳群「端ノ城古墳」)

(火の国発祥の地・みやはら)

 「宮原は、五木・五家荘県立自然公園の玄関口にあたる水と緑が豊かなまちです。泉町に源を発する氷川は、古来、火の川と呼ばれ、火打石が多く、宮原一帯を火の村と呼んでいました。その後火の村の名は、火の国、肥の国、肥後の国と発展したことから、宮原が火の国の名の発祥の地ということになります。」 ※「竜北町」と「宮原町」は2005年10月1日に合併、「氷川町」が発足して11年になる。

(氷川の流れ)

(国指定史跡・大野窟古墳)

(「道の駅」竜北ウォーキング2016)

(今回の舞台)

(2016年10月30日)

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