top of page

山川出版社『熊本県の歴史』と渡辺京二氏『熊本県人』から紐解く「肥後国の風土」

★「肥後国」を形造る多様な地域 「白川流域、緑川流域、菊池川流域、球磨川流域、芦北地方、天草諸島」 「城北、熊本市、阿蘇、天草、城南、芦北・球磨」 熊本県(肥後国)の地域は、九州山脈及び阿蘇外輪山を水源とする河川ごとに特徴がある。山川出版社発行の『熊本県の歴史』(新版県史シリーズ第43巻)によれば、現在の熊本県の地域は、①阿蘇カルデラを含む白川流域、②南外輪山に源流を発する緑川流域、③西外輪山に源流を発する菊池川流域、④人吉盆地を主軸にした球磨川流域、⑤山地が海岸にまで迫っている芦北地方、⑥八代海をへだてた天草諸島に区分される。  白川流域では、「阿蘇谷の黒川、南郷谷の白川は合流して白川となり、立野火口瀬から西へ流れ熊本平野にそそぐ。この高原地帯は中世までは阿蘇山を御神体とする肥後一宮阿蘇社の所領であり、近代においては観光客を集め、牧畜・酪農地帯を形成し、高原野菜の産地として脚光をあびている。」  緑川流域の「上流の浜町盆地は中世には阿蘇氏の拠点であったし、近世には通潤橋(つうじゅんきょう)・霊台橋(れいだいきょう)をはじめ無数の石造眼鏡橋が建造された。中流は、加藤清正の河川改修で名高く、下流は熊本平野にそそぎ、河口に干拓地を造成している。」  菊池川は、「城北の穀倉地帯の支流を集めて菊池平野・鹿本平野を流れ、玉名平野から有明海にそそぐ。この流域は古墳文化の栄えたところで、処女墳としては岩原古墳、発掘された古墳としては江田船山古墳など無数の古墳群で知られる。ほかに七世紀の鞠智城(くくちじょう)跡、近世の国衆一揆、高瀬の津、有明海干拓、近代の三池炭鉱や有明臨海工業地帯など、各時代の発展の跡を残している。」   球磨川流域には、「鎌倉時代以来相良(さがら)氏が居をかまえ、球磨様式と称される独特の仏教文化を展開している。(中略)ここでは肥後の他地域と隔絶しただけでなく、中世以来700年にわたる相良氏の統治下にあったこともあって、球磨独自の文化が保たれている。近世には上球磨から中球磨にかけて、幸野溝・百太郎溝が掘り進められ、広大な耕地が開発された。急峻な地形にはばまれた中流域は舟路が開削されて、八代と人吉を結ぶ交通路として開かれ、下流は球磨川、氷川の河口を中心に干拓が行われた。八代干拓は近世初頭からみられるが、化政期(1804~30)には鏡町・千丁町の百町新地・四百町新地・七百町新地の大規模干拓が造成された。近代にも郡築新地・昭和新地・金剛新地・和鹿島新地など大規模な新地造成がなされた。」  芦北地方は、「山地が海岸までせまっているため平野にとぼしく、近世の干拓も小規模である。リアス式の海岸は港湾に適している。肥後と球磨を結ぶ薩摩街道は起伏にとんでおり、赤松太郎・佐敷太郎・津奈木太郎のいわゆる三太郎峠は交通の難所であった。国道三号線・JRともにトンネルが山腹をつらぬいている。」  八代海をへだてた天草諸島は、「宇土半島に続いて大矢野島・上島・下島と連なり、ほかに120余の島々からなる。大矢野島・上島は天草五橋で結ばれて20年になる(1999年現在)。低地性の山がちで、平地にとぼしく生産性は低い。(中略)近世初頭にキリシタンの広がりをみ、加えて文化3(1806)年隠れキリシタンが発覚したこともあって、キリシタンの島との印象が強く、また天草・島原の乱後天領に編入されたこともあって、熊本藩域とは異なった歴史の展開をとげている。現在は鹿児島県に編入されているが、長島は中世のある時期までは肥後国天草郡に属していた。」  また、全県域の海岸線と港湾インフラに関しては、「有明海・不知火海ともに干満の差が大きなところであり、しかも土砂の流下が盛んなため沿岸で干拓地が形成された。中世には各河川の川口に港が開かれた。高瀬(菊池川)・高橋(坪井川)・川尻(緑川)・八代(球磨川)・佐敷(佐敷川)は中世以来の港湾で渡唐船が派遣されたが、近世に年貢米の津出し港として藩の蔵が設けられた。明治期にはこれらの河港は土砂の流入によって機能を失い、かわって三角港が建設され、本格的な海港の時代になった。」と整理する。

 一方、著書『逝きし世の面影』において、幕末・維新の時代に訪れた外国人によるさまざまな手記、記録を細大漏らさず調べ上げ、それらを丹念に読み解いて、当時の日本人の姿を鮮やかに描き出した歴史家の渡辺京二氏(熊本市在住)は、彼の幻の処女作『熊本県人』において、熊本県の風土を以下のように整理している(城北、熊本市、阿蘇、天草、城南、芦北・球磨の6つの地域に区分している)。  城北は、「玉名、菊池、鹿本の3郡を含む地域で、阿蘇山麓に発して有明海にそそぐ菊池川が、この古い穀倉地帯を連結して、その一体性をつくり出して来た。菊池川河口の高瀬町(現玉名市)は幕藩時代にはこの地方の米を集めて上方に送る商港で、郷土史家の中川斎氏はこれを肥後の大阪にたとえている。隈府町(現菊池市)、山鹿町(現山鹿市)、高瀬町はいずれもこの菊池川で一本につながっている。この地方は、中世における菊池氏の活躍の舞台であった。」  熊本市地域は、「奈良朝時代には肥後国府の存在地だったが、その後はさびれ、中世においては鹿子木氏などの小豪族の拠点にすぎず、その重要性は菊池氏の拠る隈府のはるか下にあった。加藤清正がここに城を築き、細川氏がそれをうけついでから、肥後の都となり、他の地域を支配し従属させる地位に立った。」  城南は、「宇土、益城(ましき)、八代よりなり、古代における火の君の本拠であった。火の国を支配する豪族だから火の君と呼ばれたのであって、肥後の国名はこれから生まれた。火の国の名のおこりは不知火とするものと、現宮原町あたりを流れる氷川とするものと二説ある。この地帯は近世初頭は小西行長領であり、また細川時代にも、宇土には三万石の支藩があり、八代には三万五千石の筆頭家老松井氏が城代として君臨していて、熊本市ならびに城北地方とは、かなり異質の歴史的伝統が見られる。」  阿蘇は、「その外輪山で熊本県本部とはっきりくぎられた別天地である。ここには、古代から阿蘇氏が、阿蘇火山の神格化である健磐龍命(たけいわたつのみこと)の祭主家として勢力を張って来た。阿蘇氏は中世には菊池氏とならんで、地方領主として軍事的活動に従い、その血統は、阿蘇神社の神主家としていまなお続いている。」  天草は、「離島であるために、熊本県本部とは文化的な意識構造がかなりちがってる。不知火海を介して、芦北や宇土とは密接な交流があるが、熊本市や城北の歴史的伝統とは完全に切れている。むしろ、その北部は長崎、南部は鹿児島の影響が強い。肥後人の精神構造に最終的なかたちをあたえたのは、なんといっても、細川藩230年の支配であるが、その間天草は幕府天領であって、その直接の影響をこうむらなかった。天草は、その切支丹の歴史に象徴されるように、菊池・加藤・細川と続く肥後の主流に対し、まったくの異端的な存在であった。  芦北・球磨について、「芦北・水俣地方は、三太郎の険で熊本県の平野部から切り離されている。熊本県の最南端であって、昔から薩摩との関係が深い。球磨はけわしい山塊中の盆地で、熊本県本部とはわずかに球磨川でつながっている。阿蘇とその点似ているけれど、地理的な孤立性ははるかに強い。しかもここは中世初頭以来、幕末にいたるまで相良氏の領地として一貫し、肥後本部から独立した独自の歴史を織りなして来た。芦北地方もまた戦国期は相良氏の勢力範囲であり、そういう歴史的因縁で、この二つの地域はゆるい一体性をなしている。」

 渡辺氏は上記記述の後、「熊本県の本流ともいうべき地域は、城北・熊本市・城南で、阿蘇・天草・芦北・球磨はいうなればその辺境」であり、「それらの(辺境)地域の人びとには熊本市を中心とする支配に対する強烈な反感が存在している」と持論を展開する。  また、一方で、都(中央)を意識した九州全体の中でのポジションという視点で見れば、歴史的にみて過去から現在に至るまで、先進地帯の北九州(福岡)、後進地帯の薩摩(鹿児島)に対し、肥後(熊本)は中進地帯であると説く。  「大化の改新以前の九州は、井上辰雄氏の『火の国』によれば、3つのブロックに分けられるという。第1は北九州であり、いうまでもなくここは大陸文化の窓口として、全国的にも有数の先進地帯であった。それだけに大和政権の支配が強力で、地方豪族の成長は制限されていた。第2は筑後・肥後地方で、ここでは大和政権の影響をワンクッションおいて受けとめることができたし、また有明・不知火の内海を通じて大陸との交渉ルートも保たれていたから、独自の文化をもった強大な豪族(筑紫の君、火の君)の成長が可能だった。第3は隼人の地、つまり鹿児島・宮崎であり、大和政権にとってこれはほのぐらい後背の地だった。」  「今日でも、熊本県は福岡と鹿児島の中間に位するものと、その地位を規定することができる。明治維新以来福岡が近代化・中央化の先端を切ってつっ走り、製鉄や炭鉱などの産業で鋭い階級分裂を経験し来たとすれば、鹿児島は階級分化のおくれた集団的エネルギーの噴出によって、維新期から明治初年にかけて全国的な激動の震源地となった。熊本は、近代化では福岡におくれをとり、維新改革のエネルギーでは鹿児島に圧倒された。福岡のように先進の利をしめず、鹿児島のような後進的な集団性をもたない。まさにその性格は中進的であり、行動においては中央追従にも反抗にも徹底できないかわりに、意識はとめどもなく屈折し、観念化して行きがちである。肥後の歴史を考える場合、こういう肥後の独特な位相を念頭においておくことが必要だと思う。」

 この二冊(導入部)を読むことで、熊本県(肥後国)の歴史と風土、熊本県人の郷土への働きかけの経緯は概ね把握可能である。

(今回の舞台)

(2016年3月27日)

最新記事
アーカイブ
​カテゴリー
​熊本国土学 記事一覧
bottom of page