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八代郡築干拓事業と『さよならの写真』

★明治時代、大規模な郡築干拓事業を指揮したのは当時の八代郡長・古城弥二郎。弥二郎は、いまでも郡築の生みの親として慕われており、彼の造った広い農地では先達に感謝しながらトマトメロン、い草などが栽培されている。

トマトキュウリイチゴメロン栽培などの園芸農業やイグサ栽培も盛んな「八代平野」は、初代肥後熊本藩主・加藤清正公が先鞭をつけ、江戸時代、野津手永惣庄屋・鹿子木量平翁が大きく発展させた「干拓地」。近代に入ってからも、大規模な干拓事業は展開された。明治33年(1900年)、沿岸の八代市西部で新たに着手された「郡築干拓事業」がそれである。「郡築」とは、八代郡が主体の干拓事業であることを示す言葉である。  郡築干拓は、着工から5年後の明治37年(1904年)に竣工。総面積は約1,000ヘクタール。最初に300戸が入植したという。1909年に郡築村が誕生すると、干拓地は一番から十二番に区画され、田畑も道路も碁盤の目のように整理された。球磨川で取水した水を利用する用排水路も張り巡らされ、海と隔てる樋門は計6つ設けられた。  100年以上の時が流れた現在も、当時の水門や用水路などが広範囲に残っているだけでなく、補助的施設として機能。また、三番町にある「旧郡築新地甲号樋門(=郡築三番町樋門)」は石造アーチ式樋門の代表作として国重要文化財に指定、「郡築二番町樋門」も国の登録有形文化財となるなど、干拓地(干拓施設群)の文化遺産としての価値も年々高まっている。  この干拓工事を先頭に立って推進したのが当時の八代郡長・古城弥二郎。下益城、玉名の郡長を務め、明治32年(1899年)に人柄と実行力を期待されて再度、八代郡長となると、弥二郎は干拓地の工事に着手。台風の被害で工事費が足りなくなるなどの困難に襲われたが、それらを乗り越え工事を完成させた。弥二郎は熊本市で生まれたが、56歳で亡くなる時、「お墓は郡築新地の門のそばに作ってください。」と言い残したと言われている。古城弥二郎は、いまでも郡築の生みの親と呼ばれ、地区住民から慕われている。

 八代の歴史を探そう(干拓地をまわってみよう)↓ http://e.yatsushiro.jp/kenkyusyo/kenkyu/mimap/2006/7_8.pdf

 郡築二番町樋門(文化遺産オンライン)↓ http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/165862

 旧郡築新地甲号樋門(文化遺産オンライン)↓ http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/202809

 郡築三番町樋門(土木遺産in九州)↓ http://dobokuisan.qscpua2.com/search-list/04kumamoto/05gunchiku/

(郡築二番町樋門(国登録有形文化財))

(石造潮受堤防(国重要文化財))

(旧郡築新地甲号樋門=郡築三番町樋門(国重要文化財))

(郡築新地にある農地)

(郡築神社)

(郡築神社に立つ古城弥二郎の胸像)

(郡築6番町にある古城弥二郎の墓碑)

 なお、この古城弥二郎の伝記は、本県(熊本県)の道徳教育用郷土資料『熊本の心』に、『さよならの写真』というタイトルで採録されている。 【道徳教育用郷土資料『熊本の心』から】 『さよならの写真』-中学校-  鹿本郡長古城弥二郎は、役所から帰ると、すぐに座敷に入リ、机の前に座った。妻は(ああ、またいつもの手習いが始まるな。)と思って、黙って別の部屋に退いた。仕事の上で何か迷いや考えごとが起きると、習字をしながら精神を集中させて、考えを練るのが彼のくせである。  弥二郎は背筋をきちんと伸ばして正座をすると、しばらくの間机の上の白い紙を見つめていた。  明治三十五(一九〇ニ)年、五月七日のこの目、弥二郎は八代郡長に転任する辞令を受けたのであった。八代郡は彼にとって二度めの任地である。そして、そこには郡築干拓事業という大きな仕事が彼を待っている。  弥ニ郎が、初めて八代郡長となったのは、明治三十ニ(一八九九)年、八月二十九日のことであった。そのころ、八代郡では、郡役所の仕事として八代海を干拓して、一千町歩の新地をつくろうとする大事業に取りかかっていた。郡の議会は満場一致で、それを決めたのであったが、いざ工事に取りかかろうとする段階になって、郡内のあちらこちらの町村から、あまりにも経費がかかりすぎること、もし工事に失敗したら取り返しがつかなくなることなどの反対論がわき起こってきた。  弥二郎は、郡長の立場から、この事業が将来の八代にとって大きな財産になることを信じていた。そこで、反対する人々を説得して干拓事業を進めていこうとした。ところが、反対論がますます強くなることを心配した県は、弥ニ郎を鹿本郡長に転任させてしまった。  しかし、やりかけた事業は続けなければならない。仕事を受け継いだ後任の郡長は、そういう空気の中でこの仕事に手を焼いた。それで、県は弥二郎を再び八代郡長に任命したのである。  今、机の前に座って、弥ニ郎は静かに目を閉じた。もう一度郡築干拓の仕事に取り組むことができるという興奮と、敵地に乗りこむような不安で、気持ちはしばらく落ち着かなかった。  やがて、弥二郎は静かに筆をとりあげると、 「尽己俟成」--己れを尽くして成るを俟つ-- と一気に書きあげた。もう心は決まった。なんとしても干拓事業はやりとげなければならない。  二度めに赴任した八代で彼を待っていたものは、前にも増して強くなった反対の空気と、難しい工事上の問題であった。  弥二郎は八代に赴任するとすぐ、家族は公舎に残して、自分は工事現場の近くに下宿した。そして昼は工事の監督にあたり、夜は反対派の集会に出かけていって、説得にあたるという日々が続いた。  そんなある日、警察署長が彼の所に来てこう言った。 「郡長、ある村で工事反対の寄り合いがあって、郡長を追い出してしまえという者さえいるそうです。万一の時のために外出の際には護衛をつけましょう。」  弥二郎は即座に、 「その必要はありません。郡長の代わりならいくらでもいる。今は私の命よりも、反対をしている人々を説得する事の方が大切です。」 と答えて、その夜も一人でその村へ出かけていった。  こうした彼の誠意が通じて、工事がようやく順調に進み始めたころ、八代地方は猛烈な台風に襲われた。そして、これまで苦労に苦労を重ねて築いた堤防は、たった一夜で無残にも破壊されてしまった。  弥二郎は吹き荒れる台風の中を提灯を片手に変わリ果てた堤防の跡を見て回った。彼は目の前が真っ暗になる思いだった。郡が銀行から借りた金は、工事の遅れなどで、もうほとんど使い果たしてしまっていた。 (この先どうやって金の都合をつけ、工事を進めたらよいのか。) とくじけようとする心を奮い立たせてくれたのは、初めこの工事に強く反対していた議員や住民たちだった。 「郡長、こんくらいのこつで弱音を吐いたら、今までのことが何にもなリまっせんばい。私どももがんばりますけん、気を取り直して指揮をとってください。」  弥二郎は目が覚める思いがした。かねて自分の家族たちに、 「新地ができれば、ふろしきには包めないものが残るのだ。日本の土地が千町歩も増えるのだよ。」 と、言い聞かせてきた言葉を思い出した。 「よし、もう一度銀行に行ってかけ合ってみよう。それ以外に方法はないのだ。」  弥二郎は銀行に交渉するために上京することを決心した。命をかけた最後の交渉のつもりだった。  上京する朝、彼は写真屋を呼んだ。黒い布をかぶってレンズをのぞいていた写真屋がけげんそうに、 「郡長さん、こちらを向いていただかないと写真は撮れませんが。」 と言った。旅行の準備をした弥二郎は、 「これでいいんだよ。後ろ姿を写してもらいたいのだ。さよならの写真だ。」 と言って笑った。  台風の過ぎ去った後の八代の空はすでに秋であった。澄みきった空をあおいで弥二郎は思った。 (郡築干拓の事業が完成するまでには、まだまだいろいろな困難が待ち受けているに違いない。よし、たとえどんな難問が襲いかかってこようとも、自分にできることを精一杯やるだけだ。)  そして、「己れを尽くして成るを俟つ」という言葉を心の中で繰り返しながら駅へ向かった。

 古城弥二郎の墓は、豊かな郡築平野を見守るかのように建てられている。 約百年前、八代の一寒村に過ぎなかった郡築一帯は、今や、米はもちろんのこと、トマト、メロン、イ草など、一年を通して収穫が絶えることのない豊かな農村に生まれ変わった。  人々は毎年二月九日になると、弥二郎の墓前に集まって潮止祭を盛大に催し、弥二郎の遺徳をしのんでいる。 -・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-  古城弥二郎は熊本市で生まれたが、五十六歳で亡くなる時、「お墓は郡築新地の門のそばに作ってください。」と言い残した。下益城、玉名の郡長を務め、明治三十ニ(一八九九)年に八代郡長となった。人柄と実行力が期待されて再度、八代郡長となると、新地の工事に着手。台風の被害で工事費が足りなくなるなどの困難に襲われた。それらを乗り越え、すべての工事が完成するまでには八年がかかった。新しくできた土地は、熊本を代表する豊かな農村地帯となった。

(今回の舞台)

(2017年4月15日)

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