top of page

宝永地震の記憶<愛知の歴史災害②>

★渥美半島の太平洋岸では、かつて海岸近くの伊勢街道沿いに栄えていた寺院や神社、集落の多くが、宝永地震津波を教訓にして、高台(海食崖の上)に移転しています。


切迫性が高い状態にある「南海トラフ地震」

南海トラフ地震は、駿河湾から日向灘沖にかけてのプレート境界(フィリピン海プレートとユーラシアプレートの境界)を震源域として概ね100~150年間隔で繰り返し発生してきた大規模地震のことで、前回の南海トラフ地震(昭和東南海地震(1944年)及び昭和南海地震(1946年))が発生してから約80年が経過した現在では、新たな南海トラフ沿いの大規模地震(M8からM9クラス)発生の切迫性が高まっています(地震調査研究推進本部によると今後30年以内に発生する確率は70~80%とされています)。

 被害規模に関して、政府の中央防災会議は、科学的に想定される最大クラスの南海トラフ地震(以下、「南海トラフ巨大地震」という)が発生した際の被害想定を実施していますが、この被害想定によれば、南海トラフ巨大地震が発生すると、静岡県から宮崎県にかけての一部では震度7となる可能性があるほか、関東地方から九州地方にかけての太平洋沿岸の広い地域に10mを超える大津波が襲来し、最悪の場合、30万人を超える死者、200万棟を超える全壊・焼失家屋、200兆円を超える被害額(被災地の資産等の被害及び全国の経済活動への影響)が生じると試算されています。

 また、土木学会は、南海トラフ巨大地震が発生すると、地震後20年間で1,410兆円の経済損失が生じ、日本は世界の最貧国になる懸念があると警鐘を鳴らすとともに、このような国難と呼びうる致命的事態を回避し、巨大災害に遭遇してもその被害を回復可能な範囲にとどめうる対策(国土のレジリエンス確保方策)とその経済的効果を示し、対策の早期実施を求めています。


 南海トラフ地震について|気象庁


 南海トラフで発生する地震の可能性|地震調査研究推進本部


 南海トラフ巨大地震の震度分布、津波高等及び被害想定について|内閣府防災情報のページ


 「国難」をもたらす 巨大災害対策についての技術検討報告書|土木学会


 南海トラフ地震を凌ぐ/見たくないことを直視して必ずくる震災を乗り越える/福和伸夫|SEIN WEB




江戸時代の南海トラフ巨大地震「宝永地震」

宝永地震は、宝永4年10月4日(1707年10月28日)、南海トラフのほぼ全域にわたってプレート間の断層破壊が同時に発生した(東海・東南海・南海地震の震源域が同時連鎖的に動いた)南海トラフ巨大地震で、地震の規模はマグニチュードM8.4~8.6(記録に残る日本最大級の地震)と推定され、江戸時代末期の嘉永7年(1854年)に連続して発生した安政東海地震・安政南海地震よりも大きな地震であったようです。

 このため、駿河から四国の太平洋側では、地震そのものによる被害だけでなく、津波や液状化による被害も甚大で、被害規模は、死者5,000人以上、倒壊家屋5万戸以上、津波による流失家屋2万戸以上であったと推計されています。

 また、この地震から49日後には富士山が噴火し(宝永大噴火)、大量の火山灰が江戸市中まで降り積もりましたが、この時の火山噴出物は、家屋の倒壊や農耕地の耕作不能化をはじめ、流出した火山灰による河川氾濫などの二次災害を引き起こし、長期間、広範囲にわたり影響を及ぼすことになりました。


 災害教訓の継承に関する専門調査会報告書(1707 宝永地震)|内閣府防災情報のページ


 過去の災害に学ぶ(宝永4年(1707)富士山噴火)|内閣府防災情報のページ


愛知県内にある宝永地震の記憶

 宝永地震による被害は、愛知県内とりわけ東三河地域で大きく、渥美半島の太平洋岸では6~10mの津波が起きたことから、かつて海岸近くの伊勢街道沿いに栄えていた寺院や神社、集落が津波の被害を受け、多くが高台(海食崖の上)に移転しています。

 豊橋市小松原町の東観音寺には、宝永地震以前の人々の暮らしぶりを示す絵画や村絵図などが残されており、津波を契機とした集落移転の様子を描く貴重な史跡が残されています。また、移転前の東観音寺があったとされる小松原海岸の雑木林には、「開山行基菩薩」と刻まれた石碑が残されてもいます。

 先人たちが現代に伝える災害の教訓を正しく知ることが、災害への「備え」を充実させ、今後の被害軽減を導くことにつながります。少なくとも渥美半島の太平洋岸には、宝永地震の教訓がしっかりと根付いています。


 愛知県東三河地域における地震による津波の歴史|東三河地域防災協議会(事務局 豊橋市)


 痕跡、教訓から学ぶ(2/5頁)|中部災害アーカイブスウェブサイト(中部地域づくり協会)


 Map1(安政東海地震・宝永地震)/災とSeeing|名古屋大学減災連携研究センター


 東観音寺/見てみよう!歴史地震記録と 旬のあいちvol.42|名古屋大学減災連携研究センター


 伊古部海岸/見てみよう!歴史地震記録と 旬のあいちvol.86|名古屋大学減災連携研究センター


東観音寺と多宝塔(豊橋市小松原町)

※東観音寺は、奈良時代の高僧にして、土木技術にも縁のある行基によって開かれたと云われる歴史ある寺院。創立当時は、太平洋に面する南海岸の山腹にあって、堂塔伽藍を完備していたが、宝永地震(1707年)津波の被害を受け、周辺の集落とともに高台にある現在地に移転された。


東観音寺古境内図(江戸時代初期)

※東観音寺に保存されている「東観音寺古境内図」(市指定有形文化財)を見ると、現在よりもはるかに規模が壮大な寺院であったこと、そして海の間近にあったことが良く分かる。


開山行基の碑(豊橋市小松原町)

※移転前の東観音寺があったとされる小松原海岸の雑木林の中に「開山行基菩薩」と刻まれた石碑が残されている(海岸にほど近い老人施設のすぐ裏手の雑木林にあるブロックで囲んだ小堂の中に祀られている)。


法蔵寺と馬頭観音(豊橋市伊古部町)

※法蔵寺にある馬頭観音は、宝永地震の津波による村の移転で置き去りにされていたものを、本寺に納めたものといわれる。


東漸寺と行者塔(豊橋市寺沢町)

※かつては海辺にあった東漸寺の墓地に建てられていた行者塔。宝永地震で東漸寺は津波の被害にあったが、この行者塔だけはなぜか流されることもなく無事に残ったとされる。津波で被害にあった東漸寺が高台の現在地に移った際、行者塔も一緒に移転し、この場所に祀られた。


「姫街道」本坂峠登り口(豊橋市嵩山町)

※姫街道(本坂通)は15里14町(約60km)の街道で、1707年の宝永地震津波による被害が発生した際には、東海道の迂回路として大きな役割を果たした。【参考:姫街道・本坂峠を越える<穂の国「東三河」⑤>


(今回の舞台)



(2023年10月08日)


最新記事
アーカイブ
​カテゴリー
​熊本国土学 記事一覧
bottom of page