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大慈禅寺の涅槃会と大渡架橋

★3月15日、九州の曹洞宗の本山・大慈禅寺で涅槃会が営まれた。開祖・寒巖義尹禅師は大渡(かつての緑川と白川の合流部。交通の難所)に大橋を架けて、川を渡る人々の安全を確保された。現住職は、寺に寄せられる支援に感謝し、熊本地震で被災した古刹の再建を誓う。

 毎年3月15日は、古くから九州の曹洞宗の本山として名をはせてきた大慈寺(地元では「大慈禅寺」と呼ばれている)の涅槃会。昨年4月の熊本地震で、鐘楼に掛かった1287年作の梵鐘(国重要文化財)が落下、本尊・釈迦如来坐像(県重要文化財)も大きく損傷し、仏殿や本殿、山門など全ての建物が被災した大慈寺ではあるが、例年通り涅槃会法要が営まれた。修復中の本尊・釈迦如来坐像の裏側には、九州一の大涅槃図もかけられていた。まさに荘厳といえよう。  大慈寺は、曹洞宗大本山永平寺の4大末寺(宇治の興聖寺、大野の宝慶寺、加賀の大乗寺、肥後の大慈寺)の一つであり、鎌倉時代・弘安元(1278)年、寒巖義尹禅師によって開創された名刹で、熊本市の南を流れる一級河川・緑川沿い(野田地区)にある。鎌倉時代は河尻氏や北条氏、江戸時代には歴代肥後熊本藩主(加藤家・細川家)によって保護された。明治維新後、廃仏毀釈で打撃を受けたが、昭和40年代以降修復・再建が行なわれ、現在に至る。  開祖・寒巖義尹禅師は、道元禅師の高弟であり、宋に二度渡り研鑽を積まれ、帰国後、安国山聖福寺(博多)に住した後、肥後の地に如来寺、大慈寺を開創され、九州地方における曹洞宗の基盤を築かれた。 この寒巖義尹禅師の功績の一つに、「大渡橋」の架橋がある  当時、白川は国府(熊本市二本木)近くから南流して、現在の大慈寺の南で緑川と合流していた(平成28年熊本地震において、白川の十禅寺地区から緑川の野田地区付近にかけて地盤の液状化が帯状に集中して発生したが、ここが白川の旧河道である可能性が高いと言われている)。緑川河口にある河尻津は交通の要所であったが、人々が渡河する大渡付近は水勢が激しく、わずかに渡し船があるのみで、九州一の難所といわれ、船の転覆による犠牲者も出ていた。そこで寒巌義尹は架橋によって人を難から救いたいと念じ、幹縁疏(かんえんそ:寄付募集趣意書、橋を架けるので寄付を集めるという素案)を発願。弘安元(1278)年、寒巖義尹禅師62歳の時、大渡橋(長さ150m、幅4.8m)は完成し、落成式典が執り行われた。  『新《トピックスで読む》熊本の歴史』(弦書房、2007年7月)は、「寒巖義尹と大慈寺」について、次のように紹介している。 「熊本市野田町にある曹洞宗大慈寺(通称大慈禅寺)は、弘安六年(一二八三)び河尻泰明の外護によって開かれた名刹である。開山の寒巖義尹は、一二二一年の承久の乱で隠岐へ配流となった後鳥羽上皇の皇子とも、佐渡へ配流となった順徳天皇の皇子ともいわれる人物である。  義尹は、建保五年(一二一七)に京都北山に生まれ、比叡山で天台宗を学んだのち、二五歳で京都深草の興聖寺にいた道元の門下に入り、やがて永平寺へと移った。かれは、建長五年(一二五三)・文永元年(一二六四)の二度にわたり入宋した後、文永六年(一二六九)に宇土郡古保里の素妙尼(河尻泰明の妹)に招かれ、三日山如来寺を開いたといわれてきた。だが、二〇年前に、同寺の本尊である釈迦如来像解体修理に際し、胎内から発見された舎利容器には、「正元二年庚申正月十日建立、如来院本尊釈迦知来、同二月九日収之、開山比丘義尹 密壇尼修寧」の銘文が刻まれていた。正元二年は一二六〇年だから、かれは文永六年より九年も前には宇土にやって来ていたこと、二度目の入宋以前に肥後と関わりを持っていたことが明らかになった。  その後、義尹は建治元年(一二七五)五月から大渡架橋の勧進活動をはじめた。大渡は現在の大慈寺の門前あたりで、現在でこそまったく別の場所を流れる緑川と白川が当時はこの大渡で合流していた。すなわち、白川は飽田国府の東を南流し、大慈寺の南側で、「大川」とよばれた御船台地から西流する緑川と合流していたのである。そのため大渡は交通の要衝であるとともに九州第一の難所といわれた。二年聞を費やして、長さ一五〇メートル、幅五メートルの大橋が完成し、弘安元年(一二七八)、三日間にわたる不断読経、一〇〇〇人の僧による大乗妙法典の転読など盛大な落慶法要が行われた。こうした架橋事業の背景には、モンゴル襲来があり、南・北九州を結ぶ橋の必要性をのぞんだ幕府の意向が働いていたと考えられている。これは、北条氏と現地の河尻氏の協力があってなしえたことであった。というのも、如来寺付近は、北条時頼の弟時定が地頭職を持つ地域で、隣接する九条家領の守富荘にも阿蘇末社の甲佐社領の入り組を通じて北条氏の力が強く及んでいたからである。河尻氏もまた北条氏との結びつきを強めていて、こうした三者の産物が大渡架橋であり、大慈寺の創建であった。(後略)」

開祖・寒巖義尹禅師は大渡(かつての緑川と白川の合流部。交通の難所)に大橋を架けて、川を渡る人々の安全を確保された。現住職は、寺に寄せられる支援に感謝し、熊本地震で被災した古刹の再建を誓われている。

(大慈禅寺山門)

(大慈禅寺全景:熊本地震で大きな被害を受けた)

(仏殿:復旧工事中)

(大慈禅寺の隣では、一級河川・緑川の熊本地震災害復旧工事も進められている)

(一級河川・緑川の流れ)

(現在の国道3号・緑川橋)

(今回の舞台)

(2017年3月15日)

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