top of page

八代平野を干拓した鹿子木量平と清正公信仰

★八代平野の現在の豊かな恵みは、先人達の努力の賜である。その先鞭をつけたのが初代肥後熊本藩主・加藤清正公であり、これを大きく発展させたのが野津手永惣庄屋・鹿子木量平翁である。

【八代平野と干拓の歴史】  「八代平野(やつしろへいや)・・・熊本県南部,八代海にのぞむ低平な沖積平野。中心都市は八代市。球磨川,氷川,砂川,大野川などの堆積作用と干拓により形成された平野で,面積約230km2のおよそ3分の2は,加藤清正の造成以来,現在までに干拓されたもの。広大な水田では冬季の温暖な気候を利用して施設による園芸農業が発達し,トマトキュウリイチゴメロンなどを産する。イグサ栽培も盛んで,肥後表の加工は農家の重要な副業になっている。1967年北部に完成した不知火干拓地では,大型機械農業を導入し,共同作業による米,ムギの生産が行われている。」(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説)  この八代平野の干拓の歴史に先鞭をつけたのが(も)加藤清正公。清正公は、八代市千丁町「新牟田」あたりを干拓し、球磨川(遙拝堰)から水をひいて農地を新たにつくった。その後、細川氏も干拓や新田開発を奨励し、とりわけ文化、文政時代には(肥後)藩の財政逼迫の救済策として八代、下益城、宇土の三郡に至る大新地開拓を計画した。この時、野津手永惣庄屋(竜北町、鏡町など)に任命されたのが鹿子木量平。量平は、八代平野の干拓に力を注いだ。

(野津古墳群のある丘陵地から八代平野を望む 2016年・秋)

(遙拝神社のある丘陵地から八代平野を望む 2016年・秋)

【干拓の祖 鹿子木量平】 「鹿子木量平は、宝暦3年(1753)飽田郡鹿子木村(北部町)に生まれました。熊本古城を築き歌人としても有名な鹿子木寂心(親員)を祖先にもつ名門の出である量平は、安永2年(1773)父のあとを継いで21才で村の庄屋となりました。庄屋時代は天明の大飢饉(天明3年1783)のとき村民を飢えや寒さから救い、寛政4年(1792)の雲仙岳が地震で崩れて、肥後の海岸に大津波が押し寄せて多くの死者が出たとき、民衆の救済に力を尽くして藩から表彰を受けました。寛政9年には民政の才能を認められて杉島手永(富合町、城南町など)の惣庄屋に任命されて活躍の場を広げ文化元年(1804)には野津手永(竜北町、鏡町など)の惣庄屋に転任となりました。  野津手永は、当時条件が悪く貧しいと言われた所であったので、量平は財政を建て直して農民に働く場を与えるために手永の海岸に干拓新田(新地)を築くことにし、文化2年に先ず百町新地の築造に成功、その収穫から毎年三百三十石を郷備米として蓄えることにしました。のち2回他の手永に転勤して益々民政に努力し、何回も藩の表彰を受けましたが、文化14年再び野津手永の惣庄屋となり、藩が計画した八代郡大牟田沖新地の築造に着手して、新田三百三十町歩(千丁町古閑出)を文政2年(1819)に完成しました。その広さから四百町新地と呼ばれ毎年多くの年貢米が納入されるようになりました。  この成功に気をよくした藩ではさらに宇土、下益城、八代三郡にわたって二千六百町歩におよぶ大干拓新地造成計画を立てて、量平を責任者に任命しました。量平は第一段階として百町新地と四百町新地の全面に七百町新地を文政4年(1821)に完成せしめました。これは肥後藩最大の新田であるが全国的にみても大規模なものでここから毎年二千四百石余、塩千六百石余の年貢が納入されるようになりました。  鹿子木量平は天保12年(1841)に89歳で没しましたが、墓は百町、四百町、七百町の三新地の接する場所に建てられ、隣地に彼を祀る文政神社があります。「藤公遺業記」は藩命によって彼が著したものですが、自分の事業の成功も神恩によると記しています。」(講師/鏡町郷土史家・戸田市治氏:「くまもとの干拓の歴史」(熊本県観光サイト/なごみ紀行)より)

 「くまもとの干拓の歴史」(熊本県観光サイト/なごみ紀行)↓ http://kumanago.jp/benri/terakoya/?mode=056&pre_page=3

(鹿子木量平一族の墓碑:八代市鏡町)

(鹿子木量平を祭神とする文政神社:八代市鏡町) http://www.komainu.org/kumamoto/yatsushirosi/bunsei/bunsei.html

(鹿子木量平翁干拓の新地)

(四百町新地を開いたときに造られた大鞘樋門群)

(大鞘樋門群の二番樋)    ※殻樋と江中樋は熊本地震で被害を受けた。

【鹿子木量平と清正公信仰】  18世紀末期、熊本藩では天明6年(1786年)の白川の氾濫、寛政4年(1792年)の「島原大変肥後迷惑」などの大災害に見舞われた。また、民衆の生活悪化から一揆や打ちこわしが相次ぎ、それは清正の霊の仕業と言う噂も出た(『翁草』)。こうした背景の中で、文政元年(1818年)の清正公200年忌を切っ掛けとして、清正公信仰が藩内に急速に広まっていった。また、藩主の細川家も反権力の象徴として浮上した清正公を崇敬することで人心の収攬を図った。 一方で、鹿子木量平は郷土・肥後における開拓・土木の先駆者として清正公を顕彰する意図で『藤公遺業記』を著すとともに、文政4年(1821年)には八代の干拓地に貝洲加藤神社を建立して農業神・土木神としての清正を祀った。これは、崇拝する清正公の霊廟に『大願成就のあかつきには新地の氏神様として勧請し永世に御祀り申し上げる』との願を掛けられ、工事に着工したことに由来するものである。

 清正公信仰の研究(熊本大学学術リポジトリ)↓ http://reposit.lib.kumamoto-u.ac.jp/bitstream/2298/16356/1/27-30.pdf

(貝洲加藤神社由緒版)

(今回の舞台)

(2017年4月2日)

最新記事
アーカイブ
​カテゴリー
​熊本国土学 記事一覧
bottom of page