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緑川を治める(加藤清正公の川づくり②)

★清正堤、大名塘、轡塘、鵜の瀬堰など、清正公の治水・利水事業は、洪水による氾濫を抑制するとともに、緑川流域の水田化を進めていった。

熊本河川国道事務所(国土交通省)のホームページによると、緑川水系における治水事業の歴史は古く、加藤清正公が天正16年(1588年)に肥後北半国の領主として入国以降、本格的に始められたとされる。 清正公は、熊本城下を洪水等から守るため、加勢川右岸に「清正堤(きよまさてい)」、緑川右岸に「大名塘(だいみょうども)」と呼ばれる堤防を構築するとともに、御船川の流路の堀り替えを実施している。 また、「轡塘(くつわども)」と呼ばれる河道内遊水装置を設置することにより、河川の合流点の堤防間(高水敷)を広くとり、水勢を弱めて洪水をゆるやかに流すための工夫も凝らしている。 http://www.qsr.mlit.go.jp/kumamoto/river/midorikawa/midorikawa_rekishi/index.html

さらに清正公は、「鵜の瀬(うのせ)堰」、「麻生原(あそうばる)堰」、「糸田堰」を築き、治水とあわせて、沿川流域の水田化を進めていった。結果、大雨のたびになすすべもなく荒れるに任せていた甲佐一帯は、豊かに生まれ変わることとなった。

【鵜の瀬堰】  甲佐神社から500メートル程下流に位置する鵜ノ瀬堰は、清正公によって1607年着手され、翌年完成したと伝えられる。堰は、1メートル程に切りだした石を、全長660メートル、幅95メートルの範囲で、(水の抵抗を和らげるために)緑川を斜めに横断するように石畳状に敷き詰めて造られており、この堰で得られた潅漑用水は甲佐、竜野、白旗、豊秋の663haの水田を潤し、江戸時代以降現在まで人々の生活を支えている。(鵜の瀬堰は、その後の洪水被害により改修が繰り返され、一部は積み直され、一部はコンクリート構造になっているが、左岸側に石畳の一部が確認できる。)  なお、鵜の瀬堰の築造と同時に、緑川の掘り替え工事も行われ、本川と並行して流下していた釈迦院川がはるか上流で合流するようになった。

(鵜の瀬堰:2015年12月)

(鵜の瀬堰の説明板)

-甲佐町の民話(鵜ノ瀬堰に関する清正伝説)- (1)むかし、甲佐には、町の東と西に二つの川が流れていました。川には堤防がありませんでしたので、雨がふるとたびたび洪水がおこり、農家の人びとは大へん困っていました。  そのころの、おとのさまは、加藤清正公でした。清正公は、二つの川の流れを一つにして、ていぼうやせきを作ったら、洪水がおこらないようになり、田んぼにも水を流すことができるようになるだろうと、考えられました。こうして、何千人もの人たちによって、工事が始められました。 (2)清正公も家来の人たちといっしょに、川に来て、工事のさしずをされました。山から、大きな石や木が切り出され、掛け声も高らかに運ばれてきました。五人力、八人力という力じまんの人たちでなくれば運べないような大きな石が運ばれて、川につみ上げられました。この工事は、何年も何年もかかる大へんなしごとでした。そのなかでも、もっともむずかしいのは、はげしい川の流れの中に「せき」を作ることでした。  いろいろとくふうをこらして、何回となく「せき」が作られましたが、はげしい水の流れにすぐ流されます。水の流れに勝つための「せき」を作ることは、なかなかできませんでした。そこで清正公は、甲佐神社の神さまに、「工事が成功しますように、水に流されないせきを作ることが出来ますように。」と、何日も何日も祈りつづけました。 (3)ある夜のことです。清正公は、川のこちらの岸から、向こうの岸へ、ななめに鵜の鳥が並んでいる夢を見ました。きらきらと、お日さまの光にかがやく静かな川の水の上に、鵜の鳥がきれいに並んでいます。清正公は夢からさめると、「これはきっと、神様のお告げにちがいない。」と夜の明けるのを待って、馬をとばして行って見ると、鵜の鳥が何十ぱとなく、朝もやのたつ川の中に並んでいました。そこで、清正公は、鵜の鳥が並んでいたとおりに、せきを作らせました。 (4)ところがどうでしょう。 「せき」は激しい水にも流されないようになりました。そうして、二つの川は、一つの川になり、長く、長く作られたていぼうにそって流れるようになりました。  これまで川の底だったところには、何百ヘクタールという広い田んぼが作られるようになりました。  これから、このせきは、「鵜ノ瀬堰」と呼ばれるようになりました。

(鵜の瀬堰で分水した大井手が流れる鮎の簗場:甲佐町)

(古閑の石刎:護岸装置)

(岩鼻神社(加藤神社):清正公の緑川治水工事の偉業を後世に伝える)

【桑鶴の轡塘】  轡塘は清正公が多用した洪水軽減方法で、河川の合流地点や水あたりの激しい部分に作られた河道内遊水装置。桑鶴の轡塘はその中でも大規模なもので、左岸側の本堤を半円形に膨らませ、河岸には不連続の前堤を築き本堤と前堤の間に洪水流を溜めた。  また、遊水池内には肥沃な土壌が流れ込むため、平常時には生産力の高い水田として利用された。(現在でも轡塘の遊水池が耕作地として利用されているところもある。)

(桑鶴の轡塘:2015年12月)

【清正堤と御船川の堀り替え】  緑川は、九州山地を流れ下って甲佐町付近で熊本平野へ入り、途中加勢川や御船川など多くの支川が合流しながら河口へ至る水量豊かな川であり、その水は流域の広大な田畑を潤している。しかし、清正公の入国以前、緑川支流の加勢川は、木山川や御船川が合流し、辺り一面は出水と氾濫を繰り返し沼地のようになっていた。さらに有明海からの海水も上ってくるため、耕地化も困難であった。  そこで、清正公は江津湖から川尻の野田に至る加勢川右岸沿いに「清正堤(江津塘)」と呼ばれる長い堤防を築き、熊本城下側への氾濫と海水の侵入を防いだ。また、加勢川上流の木山川に合流していた御船川を直接緑川へ合流させる掘り替え工事を行うことにより、木山川への流入量を半減させ洪水を抑えた。「清正堤」は戦略上の必要性もあったと言われている。そして、これらの工事によって、湿地帯は広大な田畑となった。

(加勢川と清正堤:2015年12月)

-八竜塘の伝説-  加勢川の支流に合流していた御船川の流れを新川の掘削により直接緑川に合流させるという難工事には「堤防を築くたびに、八つの頭を持った龍が川を横切って荒れ狂い堤防を壊すことから、清正が祠を建て龍神様を祀ることにより、その怒りが静まり八竜塘といわれる堤防が完成した」との伝説も残されており、その地には現在「清正公指揮所跡」の石碑が建てられている。また、龍神様を祀る「八竜大明神」は、近くの小坂集落に鎮座する二宮神社(主祭神:健磐龍命)に合祀されている。

(清正公指揮所跡の石碑)

(小坂二宮神社に合祀されている八竜神社)

(今回の舞台)

(2016年10月23日)

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