日本屈指の穀倉地帯を育んできた「菊池川」の歴史
★菊鹿盆地や玉名平野では稲作が盛んなほか、近年では、スイカ・メロンの国内有数の生産地としても知られている。菊池川流域の歴史的魅力や特色(史跡、伝承、文化、食など)を活かした「日本遺産」認定に期待したい。
本ブログ「熊本国土学」の第1回目で紹介したが、熊本在住の歴史家・渡辺京二氏は、著書『熊本県人』において、熊本県の風土を、城北、熊本市、阿蘇、天草、城南、芦北・球磨の6つの地域に区分している。 この中で、氏は、菊池川流域(=城北)を「玉名、菊池、鹿本の3郡を含む地域で、阿蘇山麓に発して有明海にそそぐ菊池川が、この古い穀倉地帯を連結して、その一体性をつくり出して来た。菊池川河口の高瀬町(現玉名市)は幕藩時代にはこの地方の米を集めて上方に送る商港で、郷土史家の中川斎氏はこれを肥後の大阪にたとえている。隈府町(現菊池市)、山鹿町(現山鹿市)、高瀬町はいずれもこの菊池川で一本につながっている。この地方は、中世における菊池氏の活躍の舞台であった」と説明する。
菊池川の最大の特徴は、古くから日本屈指の穀倉地帯を育んできたということ。 菊池川流域は、江田船山古墳(和水町)、チブサン古墳(山鹿市)など無数の古墳群で知られているが、これは当時から、有力豪族が活躍できる環境(肥沃な国土)を菊池川流域が有していたことの証左である。 律令時代、肥後は既に大国として認められおり、菊池川流域はそれに相応しい役割を果たしていた。白村江(はくすきえ)の戦いで唐・新羅軍に大敗を喫し、国家存亡の危機に立たされた大和朝廷(政権)が、大宰府やそれを守るための古代山城(大野城、基肄城)に武器や食糧を送る基地として「鞠智城」を増築したのは、菊池川流域にそれが可能な基盤(高い穀物生産性)があったから。 中世、肥後国の中心は熊本ではなく隈府(菊池)にあって、豊かな経済力(農業生産力)を背景として、この時代、菊池一族は日本史の中で大いに活躍した。 近世、菊池川河口に位置する高瀬(港)には、菊池川流域の肥後米を積んだ舟が、続々集まってきた。江戸時代、全国から450万俵の米が大阪堂島の米市場に運び込まれたが、そのうち日本一旨いと評され全国の米相場の基準だった肥後米は40万俵で、その半分の20万俵が、高瀬の港を出て行ったという。港町・高瀬は大いに賑わい、活気に満ちていた。 そして、現在。菊池川の治水・利水事業や有明海の干拓事業の効果も大きく、菊鹿盆地や玉名平野では稲作が盛んなほか、近年では、スイカ・メロンの国内有数の生産地としても知られている。
菊池川の概要(治水・利水事業を含む)↓ http://www.qsr.mlit.go.jp/kikuti/pdf/kikuti-01.pdf
菊池川周辺マップ(菊池川河川事務所)↓ http://www.qsr.mlit.go.jp/kikuti/region_map/region_map.html
菊池川写真館(菊池川河川事務所)↓ http://www.qsr.mlit.go.jp/kikuti/photo_map/photo_map.html
昨年(2015年)10月、「菊池川流域日本遺産認定推進協議会」が発足した。協議会は菊池川流域の玉名市、山鹿市、菊池市、和水町の首長と県立装飾古墳館長らで構成され、菊池川流域の歴史的魅力や特色(史跡、伝承、文化、食など)を活用した「日本遺産」認定を目指す。 「天下第一の米作り ~菊池川流域 二千年の米作りの歴史~」というストーリーで申請していた今年度(2016年度)の日本遺産認定は逃したが、流域市町の観光振興に繋げるためにも、来年度(2017年度)の認定を目指し、引き続き活発な議論・活動が展開されることを期待したい。
(天下第一の米作り)
(ヤマト王権と闘って敗北した筑紫君磐井の墓・岩戸山古墳と同形式の「江田船山古墳」)
(景行天皇九州巡幸ゆかりの「玉名大神宮」)
(古代日本の防衛最前線「鞠智城」)
(中世を代表する豪族・菊池一族を祀る「菊池神社」) http://www.komainu.org/kumamoto/kikuchisi/kikuchi/kikuchi.html
(山鹿市が誇る国の重要文化財「八千代座」)
(肥後米を積んだ舟で賑わった「高瀬船着場跡」)
(菊池川の流れ)
(今回の舞台)
(2016年10月29日)