6・26白川大水害の記憶
★「昭和28年・白川大水害(6.26水害)」の被害は、死者行方不明者422人、家屋浸水31,145戸、橋梁流出85橋にのぼった。現在、白川の河川整備は、この過去最大規模の洪水に対応することを目標として進められている。今年からは、白川の氾濫も視野に入れた関係機関連携の新たな取り組み(水防災意識社会の再構築)も始まった。
「二十五日からの雨は、二十六日の朝になって、一そう激しさを増していった。 午前中には、川尻電車が運行不能となり、三本松樋門の堤防がこわれた。昼すぎには、上熊本駅前や池田町の崖が崩れ始めた。 鉄道全線が不通になったのが、午後三時である。四時には、無田川の堤防が切れ、下河原町、寺原町等の川添いの低地帯が、水に冒されはじめた。 そしてそれから一時間のうちには、市役所附近を中心に、東は大江町、薬園町、黒髪町、坪井、出水町、水前寺、西は古桶屋町、本荘町、本山町、春日町などに濁水が溢れだした。橋は、木と土でできた、時代劇の粗末な虚無僧か鳥追いでも通るにふさわしい、あの安巳橋から、まず流失した。 清水町松崎の堤防が欠潰したのも、白川公園あたりの堤防を川水が越えたのも五時半頃で、すでに下通りのアスファルトも、濁水に洗われだしていた。死者のではじめが段山記念碑側の崖崩れによってで、これも同時刻であった。崖は、やがて、加藤神社前の電車通り、宮内町旧警察学校の下、測候所の下、段山電車通り、池田町岩立、旧警察教修所わき、新坂上、裁判所下という順序で崩れていった。五時四十分に小蹟橋が流れ、病院橋がこのあとに続いた。六時には、市電の一切のレールが水に消えた。二本木の世安橋があとかたもなく流れ去ってから、十五分ほどしてからだった。竣工して間のない、鉄筋コンクリート造りのモダンな銀座橋が真二つに折れたのは。 明午橋も、六時半すぎにはもぎとられていった。明治まで坪井川は、現在の太洋デパートの裏手、城見町附近を流れていたそうだが、そのかつての本流を恋しがってか、水はこのあたりを一等早く、わがもの顔して遊びまわった。 白川下手の蓮台寺の鉄橋の土手がこわれ、蓮台寺橋が流れ、遂に平田町の堤防が切れた。八代方面への多くの通勤者にとって、市内へ帰るには、鉄道不通のあとの徒歩道として、ここを是非通らねばならなかった。僅かの幅ながら、その胸元まで来た激流を渡り切ろうとして、押し流された人が幾人もいた。北は亀井の堤防が、南は薄場の橋が潰えたのが同時だった。(七時)雨量は、三六七ミリに達した。 狂奔する白川は、二本木の土手をこえて二本木町へあふれ、川端町の突堤も、その上に建ったバラックを押し倒して、祇園橋通りへとなだれ込んできた。川端町、紺屋町、万町、阿弥陀寺町、米屋町三丁目、細工町五丁目を洗っていた水は、これをきっかけに小沢町、唐人町までひろがっていった。この頃は、避難者が東雲座や五福校に殺到しはじめていたのである。 鷹匠町は七時半に浸水し、それから二十分もしないうちに避難命令がでた。この急激な増水の理由は、代継橋に詰った材木のために川水が曲り西巌寺通りをみたしながら電車通りを下りて来たからだ。 新市街でも辛島町でも手取本町でも、通行人はみな茶褐色の臭い濁水を腰で切って、もう暗くなった空からの隙間もないシャワーを浴びて、わが家へいそいでいた。が、この頃までは、不安はありながら、市民の殆どは、このおびただしい雨量が、熊本有史以来の大洪水をひきおこすなどとは、まだ思ってもいなかった。中には面白がっている者もいた。くるぶしを水に浸して映画を見ている者もあればパチンコをしているものもいた。坪井川の方では、暗くなっているのに、橋まで水見物にでかける者もいた。新町あたりでは八時すぎまでのんきなものだった。この時分、治人さんの家が大騒ぎしていたのは、地下にいくつも部屋があったからであり、最も増水しやすい川の曲り角にあったからだ。 京町の人々は、崖くずれの心配以外は何の憂いもなかったといえ、夕刻から、瀬戸坂、観音坂その他の坂を次々に登ってくる避難民の数と、その様子に胆をつぶしたのだった。これらの人々は、裁判所、京陵中学、京町台保育園、付属小学校、愛染院その他の寺に収容されていった。が、この時、逃げ来れずに下界の屋根の上で一夜を明した人も少くなかった。 九品寺、白山町、春竹浸水。そして、白川の水が本山町の堤防からと、碩台小学校の裏手から、越しはじめたのが同時だった。(八時) 本山町や新土河原町に避難命令の半鐘が鳴りひびく八時半前後には、まだ被害を受けていない部分の人々の顔にも、次第と不安がはりつきはじめた。朝から繰りかえされているラジオ放送だったが、この頃は誰もが真面目にきき耳をたてていた。そして市民は、最も危険なのは九時半の満潮時だという事を知った。 耐して、その放送局も、殺到して来た大勢の避難民によって殆ど占領されていた。 塩屋町界隈が水浸しになりだしたのが、九時だった。洗馬橋から氾濫し始めた水は、明十橋、明八橋と直流し、一方一番丁から一新幼稚園を通って、段山へ。--そして、横手町保育園横から出た坪井川の水は、これも溢れ出している井芹川の方へと流れていった。 街中のどこかしこ水を流し込んでいる白川でありながら、それでも又気まぐれに突如、到る所から高い潮のような濁水を駈け込ませた。川端町の堤から急に激しく流れ出た水は、通行人を祇園橋下の坪井川へ、又電車通りの地下室へ押し流した。一夜塘あたりから津波のように浄行寺町への電車通りを押し下った水群を避けた通行人は、鉄柱や門柱によじのぼったまま、鳥のような一夜を明かさねばならなかった。 もう家財運びや避難さわぎの人影はみられなかった。市内の中心部になる殆どの町々の水は、胸元か、背がたたぬか、一階の屋根までか、そのいずれかで、しかも恐ろしく速い流れとなって音たてていた。そして、泳いだり、下駄箱の舟にのったりして活躍していた男達の姿も消えた。二階のあるものは三階へ、近所に大きい建物があればそこへ、みながみな封じこまれ、寒さにふるえながら外のくらがりに吹きあれる雨風の音を聞いていた。 新市街、銀座通、下通、上通、これら市の繁華な通りは白い歯をむいて狂奔する川そのものと化した。一階の殆んどは没していた。軒並にともる二階の灯によって照らし出された濁流は街の高価な商品や家具も、阿蘇の樹木や石や砂も一しょくたに、揉んで恐ろしい早さで、低い方へ流れていた。ショーウインドーをつぶし、戸を押し破り、鉄のシャッターを押しまげた。処々に放棄された自動車も水勢には抗えなかった。鉄柱あたりにひっかかる迄流されていった。市役所通りの自動車は、みな坪井川の掘に押し流された。市役所前の電停の電柱も頭まで完全に水没した。電灯も消え、市内はくらやみの底に沈んだ。 遂に、九時半となった。この頃は、すでに西巌寺通りの家々は、母の家を含めて根こそぎに失くなっていた時分だろう。まさかと思われた鉄筋コンクリートの頑強な代継橋が、市電のレールもろともこまぎれにされて流失した瞬間であったから。有明海は満潮だった。 この満潮時を恐れ、そしてこの刻が過ぎる事だけに、誰もが望みをかけていた。中でも必死に、神仏に--たとえ信じない者でも--祈るように、その退潮の刻をじりじりと待っていた人々が、白川の上流にいた。 渡鹿の弘済寮の老人達であり、一夜塘の上に避難して来た人達であり、逃げ道を失くして付近の二階家屋に身を寄せていた大江町大江の人達である。 渡鹿の少年鑑別所のすぐ下の弘済寮という養老院は、恰度湾曲した白川の、その突き出た部分にあった。すでに六時頃からこの井手の木橋が流されて、避難する途を絶たれていた。それから三時間余りの問、救いに行く者もなく、百五十人ほどの老人が身を寄せ合っていたのだ。への字にひしゃげた少年鑑別所からでてきた振子時計が九時四十五分で停っていたと言うから、その頃弘済寮も押し流されていったものと想像される。ここだけで四十九人の死者がでた。 そして、この満潮時の川水は、その下手の湾曲部分、子飼橋東西の堤防も、殆ど同時刻に突き破ったのだった。 この大江校区のだした死者行方不明の数は、熊本県の死者行方不明数五六三人中、三四一人という数であった。中でも、子飼橋きわの三町内は一軒をのぞいて全滅した。この町内だけで百人以上の人が一度に死んだ。浸水の具合で、避難の仕方も違ったが、隣接した町同志で、死者一名と、全滅とではあまりに皮肉である。この三町内あたりは四時頃に浸水し四時半頃避難の準備をしはじめている。五時頃までは、水流もさして強くはなく、小学生達が旺んに手伝う姿もみられた。が、この頃警官によって子飼橋は「交通禁止」の縄が張られてしまったのだった。水は六時前後、一挙に増えて来た。大江校の方角は濁流で行けない。こうして逃げ路を遮断された大江町大江の人々は、二階のある家をたよって押し寄せて来た。
(中略)
一夜塘に避難していた三十余りの人達は、塘の上をこす水に足首まで洗われながら、ついに満潮時をのりこえる事が出来た。みな、互にしがみつき合って立っていた。すでに塘の一部は潰れていた。「ああ、水が退く」そういう叫びに、みな一せいに水を見た。女や子供述は、殆ど泣きだした。それは十一時すぎだった。 土木の神といわれた加藤清正の築いた一夜塘の頑丈さに押されて、水は反対側の堤を押しつぶし、大江町大江を本流の底にした。大江町大江と言えば、二十年七月の空襲の折、焼野原と化した市心にあって、唯一ケ所ふしぎに焼け残り、幸運な町として噂にのぼってきた界際だったのに--。 十時四十分頃、井芹川の堤防が欠壊した。同じ刻、逃げ場を失って、本山の土手に置き放しであった川尻電車の中へ避難していた人々は、鉄筋コンクリートの泰平橋がまん中から見事に折れ、その一方が、一旦濁流へ突っ伏した次の瞬間、死人の硬直した手のように、空に向けて伸びたのを、信じられない眼でみつめていたのだった。 十一時、十一時半・・・・・・・夜は更けていった。どこも海だった。自らのほんの周辺以外については市民の誰もがなんにも知らなかった。
(中略)
熊本市民は、その日から、洪水が残していった膨大な量の泥との闘いで、昼夜をすごしていった。水害というより泥害という言葉を使う人が多いほどだった。屋内から掻き出された泥は、道にうずたかく積まれた。で、市内の道路という道路には、軒の高さほどある泥の山脈の背稜が、緑一点もないアリゾナ風の趣きで--しかも、気象台開設以来の猛暑とか言う夏日にさらされて--打ち続いていた。繁華な大通りも、真白な砂の絨毯が敷きつめられていた。そこへ電車、自動車、単車等が行き交うので、恰もアメリカ映画の「西部の街」のように、砂塵が絶えず舞い上っていた。橋の流失した所には、渡し舟が設けられていたが、この舟にのって両岸をみれば、熊本という町が、恰度砂漠の砂に埋めつくされていったというアフリカのトリポリの町でも偲ばせるほど、乾いた泥に覆われてみえた。 風が吹けば砂は空に舞い、あらゆるものに白くついた。」(福島次郎著『現車(うつつぐるま)』より抜粋)
「6月26日」は、ここ熊本では特別な日となっている。「昭和28年・白川大水害(6.26水害)」が発生した日だ。 昭和28年6月末、停滞していた梅雨前線に高温多湿の気流が流れ込み、熊本地方は未曾有の豪雨となった。阿蘇地方にそれまで降り続いた雨で地盤は高い湿潤状態であったところに、この大雨が降ったため、白川はまたたくまに増水して大洪水となって沿川一帯に大きな被害を与えた。 この6・26災害の被害は、死者行方不明者422人、家屋浸水31,145戸、橋梁流出85橋(うち熊本市内の白川本川、白川にかかる橋14橋)にのぼった。
西日本大水害(九州地方整備局)↓ http://www.qsr.mlit.go.jp/bousai_joho/torikumi/index_c01.html 県政ニユース特集 熊本県大水害記録|配信映画(科学映像館)↓ http://www.kagakueizo.org/create/other/5583/
冒頭の文章は、熊本の戦後文学を代表する作家、福島次郎(1930~2006年)の長編小説『現車 後篇』(論創社)から引用したものであるが、本書では、著者の一族の歩み(玉名郡から熊本城下町へ出て小旅館の主になった祖父の鶴松。そのひとり娘に生まれ、ばくちの胴元として財をなし、性悪な男たちと縁が切れない母・民江を中心とした物語)とともに、明治~昭和の熊本の変遷、熊本大空襲や白川大水害などの出来事が鮮やかに描かれている。
流域面積の80%が上流域の阿蘇カルデラ=全国平均の2倍にもなる多雨地帯、洪水を引き起こしやすい河川勾配、県都・熊本市街地を天井川が貫通する。こうした特徴を持つ白川は、過去に何度も大きな洪水を引き起こしてきた。その中でも、過去最大規模の洪水が「昭和28年・白川大水害(6.26水害)」である。 現在、白川の河川整備は、この「昭和28年・白川大水害」の洪水規模(150年に1回発生する確率規模の洪水)に対応することを目標として(白川水系河川整備基本方針による)、当面は、20〜30年に1回発生する確率規模の洪水に対応すべく(白川水系河川整備計画による)進められている。
白川について(九州地方整備局熊本河川国道事務所)↓ http://www.qsr.mlit.go.jp/kumamoto/river/shirakawa/gaiyou.html
また、河川堤防などのハード対策だけでは防ぎきれない大洪水に備えるため(白川の氾濫が発生することを前提として)、河川管理者(国)、県、市町等が連携・協力して、減災のための目標を共有し、ハード対策とソフト対策を一体的、計画的に推進する「水防災意識社会再構築協議会」が発足している。
白川・緑川 水防災意識社会再構築協議会(九州地方整備局熊本河川国道事務所)↓ http://www.qsr.mlit.go.jp/kumamoto/river/shirakawa/mizubousaisaikoutikukyougikai.html
(白川大水害記録碑)
(現在の子飼橋)
(子飼橋から上流をのぞむ)
(子飼橋から下流と大江地区をのぞむ)
(子飼橋の袂にある「白川わくわくランド」)
(「白川わくわくランド」内の展示状況)
(白川大水害の写真展示 ※映像もあります)
「白川わくわくランド」↓ ※白川の歴史や役割、川のしくみなどを楽しみながら学べる施設 http://www.wakuwaku-land.go.jp/
(今回の舞台)
(2017年6月26日)
関連ページ(熊本国土学) <第15回>白川を治める、その難しさ(2016/10/22)