女性宮司が地域のために奮闘する、肥後国三の宮「郡浦(こうのうら)神社」
★国造り神(イザナギ、イザナミ)の孫娘にあたる女神「蒲智比咩命(かまちひめのみこと)」を祀る、肥後国三の宮「郡浦神社」。現在は、女性宮司が神社を守り、地域のために奮闘する。
郡浦(こうのうら)神社は、熊本県宇城市三角町郡浦に鎮座する神社で、甲佐神社(甲佐町)、健軍神社(熊本市東区)と共に阿蘇神社(阿蘇市)三摂社の一つとされている。 蒲智比咩命(かまちひめのみこと)、健磐龍命(たけいはたつのみこと、阿蘇神社主祭神)、速瓶玉命(はやみかたまのみこと、国造神社主祭神)、神倭伊禮毘古命(かむやまといはれびこのみこと、神武天皇)の四柱を配祀し、中世には、肥後国三の宮として信仰されてきた。社領は当時、住吉、長浜を除く宇土半島全域に渡り、社田350町、網田に80町を有する大社であったとされる。 郷土史家の小崎龍也氏は、「三角の町は郡浦を中心に発展してきた。明治の終わりまでは三角より、郡浦という名称が一般的だったが、その郡浦にかつて蒲智比咩神社という社があった。この蒲智比咩とは島原の普賢神社祭神の娘でイザナギ、イザナミの神の孫娘にあたる女神である。中世の三大実録中に蒲智比咩神社に関するこんな記録がある。『八七八年(元慶二年)蒲智比咩神社の前の川が真赤に染まり、周辺の草木は全て枯れてしまった。驚いた都の人々がこれは肥後国に異変がおこる前触れだと都の神祇官に申し立てをしたところ、「疾病が流行、もしくは外から敵が攻めてくる」という占いがでた。そこで十二月、神祇官が宗像神社へお祓いの使いの使いをだした』とあるが、占いの真偽はともかくこの咩異変咩は本物だったようである。中世、この地方では郡浦地区を中心に、製鉄で繁栄していた。現在もあちらこちらにその製鉄遺跡をみとめることができるが、蒲智比咩神社の川の上流にも官迫(かんざこ)という製鉄があった。すなわち当時、製鉄用の鉄が川に流れてそれが酸化して川を赤く染めたのであろう。その鉄錆が草木を枯死させたのだと思われる。 蒲智比咩神社は後に郡浦神社に祀られるが、蒲智比咩神社の祭神、蒲智比咩は阿蘇の国造神社の速瓶玉(はやみかたま)命に嫁いでいる。これは蒲智比咩神社を祀っていたこの地の豪族が阿蘇氏に敗れ神社共々阿蘇氏の支配下に入ったことを意味する。 阿蘇氏が三角に勢力を伸ばしたのは、良港を得るためであった。中世の肥後の港―――玉名の高瀬は菊池氏、川尻は川尻氏、八代は相良氏にそれぞれ治められていたが、三角にはこれらの豪族のいずれにも属してなかったのである。以後、三角は阿蘇氏の海外貿易の拠点となり阿蘇氏の勢力下におかれる。郡浦神社が阿蘇、健軍、甲佐の三社と共に阿蘇四社に数えられるのはこの頃からで、もとの祭神、神武天皇と蒲智比咩神は阿蘇三神と併祭されるようになった。これはもちろん阿蘇氏、阿蘇大宮司家の勢力に伴うものである。」と語る。
現在は、前川あけみ宮司が、女性ならではの心遣いで神社が住民の絆になるよう頑張っておられる。しばらく(32年間)途絶えていた流鏑馬(やぶさめ)を、地域住民と一緒になって復活させることで、秋季例祭が盛大に行われるようになった。また、神社の由来、正式な作法等を語り継ぐ中で、氏子の皆さんが神事に関心を持ち、伝統を守ることの大切さを感じてもらえたらと願う。 今年4月の熊本地震では、鎮守の森を形成している裏山の御神木が御神殿に倒れてきて、その対応に奮闘された。 800年以上続く肥後国三の宮「郡浦神社」と周辺地域の歴史や文化が、末永く引き継いでいかれることを願ってやまない。
(肥後国三の宮・郡浦神社)
(肥後国三の宮)
(郡浦神社・御神殿)
(郡浦神社・由緒板)
(郡浦神社・秋季例祭の案内)
(今回の舞台)
(2016年10月1日)