犬童敬太郎の「植林人生」
★犬童敬太郎をはじめとする先人たちの取り組みを受け継いでいくことが必要であり、またそのための教育も重要である。道徳教育用郷土資料『熊本の心』に採録された「植林人生」は、国土教育の優れた教材である。
【植林人生/道徳教育用郷土資料『熊本の心』(中学校)から】 「敬太郎さん、今日も植林ですか。よく精が出ますね。」 村人のあきれたようなあいさつである。 犬童敬太郎は、日露戦争に出て、故郷へ帰って以来、まるでとりつかれたように、木を植え育てることだけに打ちこんでいた。朝は早くから夕方遅くまで、汗水を流し、植林、植林の毎日であった。 どうしてこんなにまで、木を植えることに情熱を傾けるようになったのか。彼ははっきりと語ってはいないが、大陸へ渡リ荒れ果てた土地の中で暮らしている人々の様子を見たことで、山林と人間生活との深いかかわリについて、何か強く考えさせられたに違いない。 故郷へ帰った日、彼は、 「ふるさとっていいな。夢にまで見たこの山や川は本当にすばらしい。だがこの山の荒れ方はどうしたことだ。みんな山林のありがたさを忘れている。山林がみんなの財産だってことが、わからないのかな。」 と、知人に話している。 こうして、敬太郎が植林の仕事を始めてから、何年かたった秋のことである。村人が仕事の帰リに、山道を歩いていると人の話し声らしいものが聞こえてくる。 「大きくなったな。偉いぞ偉いぞ。」 だれかが子どもを励ましているようである。周リを見回すと林の中には敬太郎がただ一人立っているだけで、話し相手らしい人影はない。 村人は不審に思って、 「敬太郎さん、あなたはだれと話をしていたんですか。」 と尋ねると、敬太郎はまじめな顔で、 「ああ、この杉の木たちと話をしていたんですよ。大きくなるのが楽しみでね。」 と言う。村人は驚いて返す言葉もなかった。 また、こんなこともあった。ある人が、敬太郎に山林を切って売るように勧めたが、彼はがんとして売ろうとしない。 そこで、その人は、 「あなたはそんなに木ばかリ植えておられるが、杉は五十年、ヒノキは六十年と言いますからね。おそらく、あなたの生きているうちに切って売ることは、難しいでしょう。それに、もしも子どもの時代になって、子どもが金使いが荒く、木を切って売ってしまうようなことになったらどうしますか。それよリ今切り出して、少しは楽な生活をした方が、得だと思いますがね。」 と言ったら、敬太郎は、 「なるほど、そういう考え方もありますね。しかし、私がこの木を植えることで、いったいだれが損をしているでしょうか。みんないくらかずつの利益を受ける者はいても、損をしている人はだれもいないと思いますがね。苗を植える人、育てる人、製材する人、そしてそれを使って家を建てる人など、この木はだれにとっても役に立つはずです。そのほかに、良いことが、もっとあるかもしれませんよ。中には成長する木を眺めながら喜ぶ私のような者もいます。それに人間ばかリじゃない。鳥やけものだって喜んでくれます。たとえ子どもが私の育てたこの木を売って何をしようと、子どもがそれで喜ぶなら、それもいいではあリませんか。」 と言ったのである。その人はすごすごと引き下がっていった。 その後も、敬太郎は周リのうわさは気にもせず、ひたすら木を植え育てていった。 後に、敬太郎は村民の信望を集め、球磨郡上村の村長になり、かねてからの念願である村有林の育成に全力を傾けていった。まず、村長となって第一にやった仕事は、千八百ヘクタールにおよぶ村有林の植林と伐採について、基本となる計画を立てることであった。しかし、当時の村議会は一人の山林専任書記を置くことにさえ反対した。そこで、敬太郎は全議員の家を回リ説得に説得を重ね、ついに全議員の承認をとリつけた。そのほかに山林技手も併せて採用することも決定したのである。その山林技手を、村長よリ高い給料で待遇したという。 その後いろいろな困難もあったが、その度に、彼の立派な山林を育てようという信念と情熱は高まっていった。こうして村有林についての基本計画を仕上げることができ、大正四(一九一五)年から二十ヘクタールに及ぶ植林が毎年実行されていくことになる。 この計画によって最初の植林が行われた時、先頭に立って木を植えている敬太郎の頬には、何か光るものがあった。 このようにして白髪岳のすそ野に広がる村有林は、豊かな美しい山林へと生まれ変わっていった。
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犬童敬太郎は、球磨郡上村(現在のあさぎり町上) に生まれた。明治四十三(一九一〇)年に上村の村長に選ばれると、村民が協力して村有林を育て、保護する計画を立てた。木はゆっくり育つので、すぐ売れるようにはならず、村有林の手入れを手伝ってもお金がもらえない計画だったため、村民の多くが反対した。しかし、敬太郎は五十年後の村の姿を考え、村中を回って村民に考えを伝えた。その結果、計画は実行され、上村は緑豊かな土地になっていった。
(道徳教育用郷土資料『熊本の心』から)
【わが国の森林整備を巡る歴史】 日本は森林が豊かな国である。そういう国土にある。昭和40年代以降に生まれた我々世代は、これを当たり前のこととして、疑うことがない。しかし、戦前や戦後すぐのころは、こうではなかった。日本中、どこの農山村も背景の山は、いわゆる「はげ山」であったらしい。これは、木材を資源や燃料として大量に使っていたからであり、森林の荒廃は、明治時代にも、江戸時代も頻繁に発生し、その都度、森林資源の枯渇や災害(洪水)の発生に悩まされてきた。 状況が大きく変ったのは昭和30年代になってからで、「拡大造林」と呼ばれた大規模植林政策が進められる一方、化学肥料や石油資源へのエネルギーの転換と、安価な外材(外国産木材)の輸入によって国産材の需要は減少し、これらの結果、荒廃山地、採草地、薪炭林は消え、かわりにスギ・ヒノキを中心とする人工林が増えていった。
我が国の森林整備を巡る歴史(林野庁)↓ http://www.rinya.maff.go.jp/j/kikaku/hakusyo/25hakusyo/pdf/6hon1-2.pdf
水害の多発からニッポンの森林を考える-荒れた人工林の放置が最大の問題(WEDGE REPORT)↓ http://wedge.ismedia.jp/articles/-/1435
【犬童敬太郎の故郷を訪ねる】 犬童敬太郎が生まれた球磨郡上村を含む「あさぎり町」の森林面積は、町総面積の66%を占めており、その51%が収益を求めることが可能な経済林だ。だが、長引く林業の不振から放置林も多く間伐も行われず、台風などによる風倒木も放置されたままの状態も見られる。
2016あさぎり町町勢要覧(平成28年11月発行)↓ http://www.asagiri-town.net/q/aview/8/8938.html
現在、われわれが享受している安全で快適な生活は、先人たちが森林や田畑、鉄道や道路を整備し、川を治め、水資源を開発するなど、絶え間なく国土に働きかけを行うことによって、国土から恵みを返してもらってきた歴史の賜物である。 街道や港等の交通インフラ、堰や堤防等の防災インフラ、井手(用水路)や溜池等の農業インフラとは異なり気付きにくいが、「森林整備」も重要な国土への働きかけである。自然のなすがままに任せていて、森林保全(国土保全)が図れるわけではないのである。 犬童敬太郎をはじめとする先人たちの取り組みを受け継いでいくことが必要であり、またそのための教育も重要である。道徳教育用郷土資料『熊本の心』に採録された「植林人生」は、国土教育の優れた教材である。
(白髪岳と上村の風景)
(犬童敬太郎は白髪岳のすそ野に広がる村有林を育てた)
(犬童敬太郎の生家に残る石蔵)
(白髪神社)
(あさぎり町にある「くまがわ鉄道・おかどめ幸福駅」)
(今回の舞台)
(2018年4月22日)
関連ページ(熊本国土学) <第46回>人吉球磨はひな祭り(くま川鉄道で巡る相良氏700年の歴史)(2017/03/04)