top of page

阿蘇谷の開拓・農耕を守護する「國造神社(北宮)」と鯰と地震の物語

★阿蘇中岳の爆発的噴火により火山灰に覆われた「國造神社(北宮)」。主祭神・速瓶玉命は、阿蘇の開拓に水利にと国土開発の大業をなされ、庶民に農耕を教え畜産に植林に万幸を与え衆民を愛撫し、仁徳を施されている。

 『阿蘇中岳 爆発的噴火 噴煙1万メートル超 入山規制 四国でも降灰、停電2万9000戸』  10月8日午前1時46分頃、阿蘇中岳第1火口で爆発的噴火が36年ぶりに発生した。噴煙は観測史上最高の1万1千メートルにまで達し、中岳火口から約7.3キロ離れた阿蘇市坂梨地区で直径4センチ前後の噴石を確認したほか、降灰は県外など広範囲に及んだ。熊本地震で楼門などが倒壊した阿蘇神社だけでなく、その北方(阿蘇市一の宮町手野)に鎮座する國造神社(北宮と称される)も火山灰に覆われた。  境内案内によると、國造神社の由緒・沿革は、  「御主神 国造速瓶玉命は、肥後一ノ宮阿蘇神社の主神 健磐龍命の第一の御子神にして、延喜の制式内社(官社)に列せられて、阿蘇神社と同格の御社であり、父神健磐龍命の聖業を嗣がれ、阿蘇の開拓に水利にと国土開発の大業をなされ、庶民に農耕を教え畜産に植林に万幸を与え衆民を愛撫し、仁徳を施された。  この御聖徳と御功業により、第十代崇神天皇の朝に、阿蘇初代国造と定められ、同十八年(紀元五八一年)御子惟人命(彦御子神)に勅せられて、阿蘇国造の神として、御居住の地(現在地)を卜して鎮祭せられ、茲に二、〇〇〇年以上の歴史ある古いお社である。  此の間上歴朝の尊崇はもとより、下万民の敬仰する所で、国司、藩司の崇敬も亦篤く、中世以降に於ても肥後の大守細川氏も阿蘇神社と共に造営に、祭典に、代々藩費を供進せられ、現在の社殿は寛文十二年、細川五代綱利公の御造営のものである。  古来、農神としての信仰厚く、五穀豊穣に晴に祈り、雨に乞ひ、又害虫消除に頗る霊験新かであり、近郷近在より其の時折りに祈願参拝も多く、近年には阿蘇の古名社として、遠来よりの参拝も沢になりゆき之大神の偉大なる御恩頼を渇仰する故に外ならない。  明治七年十月には県社に列せられた。」とある。

拝殿に向かって右手には、人々が豊かになるために退いていただいたとされる鯰の神様を祀る「鯰社」がある。鯰社の説明板には、  「建磐龍命が阿蘇の火口湖を立野の火口瀬を蹴破り干拓された時、大鯰が出現、阿蘇谷半分かけて横たわっていた。ミコトが鯰に向かって「多くの人々を住まわせようとして骨折っているが、お前がそこに居ては仕事も出来ぬ」と言われると、鯰は頭をたれてミコトに別れを告げるように去っていったと伝えられている。  ミコトはその湖の精であった鯰の霊をまつると同時に鯰を捕ることをかたく禁じられた。  祭神が鯰の霊ということで、皮膚病ことにナマズハダに霊験があり、今でも全快すると鯰の絵を書いて、神社に奉納する風習が残っている。」と書かれている。

 ちなみに、日本にはこの物語とは別に「地震が起こるのは、地下の鯰が暴れ、地面が揺れるためである」というナマズ伝説(俗信)もある。常陸国の鹿島神宮に要石が置かれ、鹿島大明神が地震の起こらないように地下の鯰を押さえているという言い伝えはその一つである。  篤姫の時代、1855年の10月(太陰暦では神無月)にM7クラスの大地震「安政江戸地震」が発生したが、この時、日本中の神々が出雲大社に集合していたため、鯰を押さえる要石を司っていた鹿島大明神も鹿島を留守にしなくてはならず、その留守の間に地震が起こった、という言い伝えだ。(コルネリウス・アウエハント著『鯰絵―民俗的想像力の世界』)  鯰絵には、鹿島大明神が地震鯰を叱責しているもの、地震で被害を受けた人々が地震鯰を殴りつけているものなど、当時(幕末江戸)の世相を反映する様々なものがある。 http://www.jice.or.jp/cms/kokudo/pdf/reports/autonomy/manage/autonomy_manage_02.pdf

 閑話休題。 父神健磐龍命の聖業を嗣がれ、阿蘇の地を開拓し、農耕・植林などを指導したとされる速瓶玉命を主祭神とする「國造神社(北宮)」は、今も阿蘇谷の豊かな恵みを見守ってくれています。

(國造神社の秋)

(國造神社・拝殿)

(國造神社・拝殿内部)

(鯰社、目を凝らして見ると小さい鯰の姿が)

(手野のスギ;推定樹齢1000年以上、2000年とも)

(10月9日(日)熊本日日新聞・朝刊1面)

(噴煙をあげる阿蘇中岳と一の宮市街)

(今回の舞台)

(2016年10月16日)

最新記事
アーカイブ
​カテゴリー
​熊本国土学 記事一覧
bottom of page