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阿蘇谷を鉄道で行く(鉄道整備の歴史とJR豊肥本線)

★九州屈指の観光路線であるとともに、大分市・熊本市への通勤・通学路線でもあるJR豊肥本線。2016年4月の熊本地震で大きな被害を受け、現在も、肥後大津駅~阿蘇駅の間で不通となっており、早期復旧が期待されている。

 1868年に成立した明治政府は、版籍奉還や廃藩置県を通して中央集権国家体制を固め、富国強兵や殖産興業の理念のもと、新しい国家づくりを進めていった。インフラ整備においては、産業革命により近代化が進んでいた欧米諸国の技術を積極的に導入することによって、飛躍的な発展を遂げることになった。  こうした状況の下、明治政府がとったインフラ整備政策の第一は、鉄道整備であった。1870~1874年までの社会資本への投資シェアをみると、河川整備に14.4%、道路整備に8.6%であったのに対し、鉄道に対する投資は77%にも上った。  当時、大隈重信は、「四通八達の便をはかり、運輸交通の発達を努めんには、鉄道を敷設し、且つこれと同時に電信を架設して、全国の気脈を通ずることが実に最急の要務である。そして、是は単に運輸交通を便にするのみならず、その封建の旧夢を破り、保守主義連つまり言葉を換えれば、攘夷家の迷夢を開き、天下の耳目を新たにして、王政維新の事業を大成するに、少なからぬ利益を与うることになるのである。」と主張した。  また、岩倉具視は「(天皇が)このたび東京に御遷都になったが、(中略)汽車で御通過になればなんでもない。時間が短いばかりか、万事が簡単にできる。だから、陛下の御孝道のために、この鉄道はまことに大切である。」と主張したが、この時代にはこれが鉄道建設促進に寄与したともいわれる。

その後、「我が国の鉄道は、明治5年の新橋・横浜間の開通を第一歩として、明治末期までに、ほぼ全国の幹線網が完成されるに至った。この間、14年に発足した日本鉄道会社を始めとした私設鉄道も多数建設され、20年代には私設鉄道建設ブームが訪れることとなったが、25年に設立した鉄道敷設法により、鉄道建設は官設を建前とし、長期的展望にたって、これを推進する方針が確立し、さらに、日露戦争後、39年の鉄道国有法により私設鉄道の買収が実施され、明治末期においては全国の鉄道の9割余を官設鉄道が占めることとなった。 大正期に入り、第一次世界大戦を契機とする我が国経済の飛躍的な発展に伴い、鉄道事業も急成長をとげ、9年には、鉄道省を設置して総合的な鉄道行政を掌ることとなった。また、この時期には自動連結器及び空気ブレーキの採用をはじめとして、鉄道車両の国産化及び長大トンネルの建設等が図られ、鉄道技術も国際的水準に達した。」

 日本鉄道史(国土交通省)↓ http://www.mlit.go.jp/common/000218983.pdf

 明治政府の鉄道整備政策は、学校教育(中学校・歴史的分野)においても必須の教育アイテムとなっている。平成28年度現在、全国で最も数多く用いられている東京書籍の教科書(総採択冊数に占める占有率51%)では、「政府は、経済の発展の基礎になる、交通や通信の整備を進めました。1872(明治5)年に新橋・横浜間に鉄道が開通し、その後、神戸・大阪間、大阪・京都間、小樽・札幌間など、主要な港と大都市とを結ぶ鉄道が開通しました。」「産業の発展は、交通機関の発展に支えられいました。鉄道では、1889年に官営の東海道線が全線開通しました。民営鉄道も官営を上回る発展を見せましたが、軍事や経済上の必要から、1906年に主要な民営鉄道が国有化されました。」と記述されている。

(中学歴史教科書(東京書籍)における鉄道関連記述)

熊本県下に鉄道が敷設されたのは明治24(1891)年。4月1日に玉名駅、7月1日に熊本駅まで開通した。しかし、阿蘇まで鉄道が敷設されるには時間がかかった。  豊肥線敷設の具体的な運動は、明治20年5月の私設鉄道条例公布を受け、同21(1888)年から熊本・大分両県の有志の間で進められた。その後、政府は同25年6月、鉄道敷設法を定め、熊本~大分聞を第二期予定線に編入した。この時点で、豊肥線は官設鉄道として敷設されることが決まり、同26年秋には測量も実施されたのだが、日清戦争(明治27~28年)により着工には至らなかった。  日清戦争後には、第二次鉄道投資ブームに乗って、豊肥線を官設でなく私鉄として建設しようという意見が起こり、明治28年10月、東肥鉄道株式会社(熊本~大津間)、翌29年9月、九州横貫鉄道会社(竹田~大津間)が設立されたが、明治30年の不況により両社とも鉄道敷設を実現するには至らなかった。  さらに、逓信省鉄道局は豊肥線敷設のため再度の実測を行い(明治36年11月)、翌37年から着工する予定をたてたが、日露戦争(明治37~38年)により中止となった。  こうした紆余曲折を経て、ようやく明治45年5月になって熊本~大分間の鉄道建設は「国有の軽便鉄道」として決定された。宮地軽便線は、大正元(1912)年11月に熊本から着工し、大正3年6月には大津まで、同5年11月には立野まで、そして同7年1月25日には宮地まで開通した。  阿蘇に鉄道を敷設しようと地域に働きかけ推進につとめた宮地町の犬飼真平(衆議院議員、宮地村長)はその運動を回顧して次のように語っている。  明治初年のころ熊本城下では阿蘇出身者を軽蔑して猿猴のように見なし「あそんじゃう、南郷ぞふ、合志のものに、菊池のお人」とけなしていた。この言葉は菊池(出身者)を第一とし、合志を第二、南郷・阿蘇を劣等とけなした内容であった。こうした軽蔑に反発し「彼れに臨むに教育と殖産を振興し、地方の発展を謀るにありと。地方の発展は鉄道の速成にありとし、先覚の土は一意之に熱中」したという(「九州日日新聞」大正7・1・25)。阿蘇への軽蔑に対する反発が鉄道敷設の原動力として働いていた。 豊肥線全線(熊本~大分間)の開通は昭和3年12月。難工事(坂梨と外輪山との高度差約230mを貫く5つのトンネル掘削)を乗り越えての竣工であった。豊肥線の開通により、大分~熊本間148km が6時間で結ばれることになった。  豊肥線開通に際して九州新聞は「豊肥線開通-運輸交通界の革新」(昭和3年12月1日)、九州日日新聞は「豊肥線全通-交通運輸上の大変革」 (同12月2日)と同じ題の社説を掲載している。交通上の大変革というのは、九州日日新聞の社説によると、大分を門戸として中国四国並びに京阪地方と連絡し、一方、門司を起点として本土並びに朝鮮「満州」中国に対応するものと相まって「広く大きく九州を生かすもので、運輸交通上より来る九州の大変革である」と論じている。そして別府-阿蘇-雲仙の一大遊覧地は「世界の客を呼ぶに足ることでもあれば九州としては交通運輸上のみならず確かに文化史上一時期を刻するまでの変革を来たすことなるべし」とも述べている。(「九州日日新聞」昭和3・12・2 )。 豊肥線は九州の中央部に位置し、九州の東西を結びつけ九州全体の協力体制を形成する鍵をにぎる重要な交通機関として位置づけられていた。そこには関西経済圏との共存、朝鮮中国進出が念頭におかれていた。 (以上、『阿蘇町史 第1巻(通史編)』による)

そして現在。JR豊肥本線は、世界有数の規模を持つ阿蘇カルデラの中を横切って九州中部を横断し、大分市と熊本市を結ぶ。特急列車も多く運行され、阿蘇や城下町・竹田市を通る観光路線であるとともに、大分市・熊本市への通勤・通学路線でもある。  熊本駅から肥後大津駅までは電化区間で、政令指定都市である熊本市をはじめとする熊本都市圏の通勤通学路線となっていて、沿線には学校や光の森を始めとした新興住宅地や、ニュータウンが数多く立地している。このため、運行本数も利用者も多い。  一方、肥後大津から先は非電化となり、阿蘇外輪山に向かってゆく。立野駅のあるところ(立野火口瀬)は、外輪山が1か所だけ途切れて低くなった場所で、阿蘇のカルデラ内と熊本平野をつなぐ一級河川・白川も国道57号もJR豊肥本線・南阿蘇鉄道もここを通らねばならない。立野駅手前で、豊肥本線は有名なスイッチバックで標高を稼いでカルデラ内に入る。

 JR豊肥本線は、全国的にも有数の多雨地帯(阿蘇地方の年間降雨量は約3,200mmで、全国平均の2倍にもなる)を通過するとともに、さらに脆弱な地質を有する阿蘇外輪山を通っているため、豪雨災害や土砂災害が発生しやすく、そのたびに数か月から災害の規模によっては1年以上も不通となることもある。  2012年7月12日の九州北部豪雨では、緒方駅(大分県)~肥後大津駅間の各所で土砂流入・築堤崩壊・橋梁流出などの災害が発生した。被害の大きかった豊後竹田駅(大分県)~宮地間は、翌2013年8月4日まで復旧に時間を要した。  そして2016年4月には熊本地震が発生。立野駅~赤水駅間で大規模な土砂崩壊が発生するなど、豊肥本線は大きな被害を受けており、現在も、肥後大津駅~阿蘇駅の間で不通となっている(肥後大津駅~宮地駅間で、主に地元の通学利用者を対象とした代替バス輸送を実施中)。今後は、国が実施する阿蘇大橋地区の復旧事業や県の斜面崩落防止のための事業と調整・連携のうえ、JR九州による早期復旧が期待されている。

(熊本駅)

(光の森駅)

(三里木駅)

(「あそぼーい!」at肥後大津駅in2015・12)

(阿蘇大橋地区の被災状況)

(阿蘇駅)

(宮地駅)

(九州横断特急)

(豊肥本線災害復旧資料館)

(今回の舞台)

(2017年1月21日)

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