西三河の東海道を歩く<三河国土学⑥>
★藤川宿、岡崎宿(城下町)、池鯉鮒宿には、程度の差こそありますが、江戸時代の宿場町景観が残されており、往時の風情を感じることができます。
西三河の東海道
江戸時代の東海道は、現在の一般国道1号(国土交通省管理)に沿ったルートで、東三河には、二川、吉田、御油、赤坂の4つの宿場があった(江戸時代の交通と暮らし<『かがやく豊橋』③>/道路の歴史と御油宿・赤坂宿<穂の国「東三河」④>)と紹介させていただきましたが、その先の西三河には、藤川、岡崎、池鯉鮒(知立)という3つの宿場がありました。
時を旅する 愛知の街道|愛知県
東海道(二川宿本陣資料館)
東海道37番目の宿場「藤川宿」
「藤川宿」は、赤坂宿より9kmの距離にある東海道五十三次の37番目の宿場。岡崎市の東の玄関口に位置し、小規模ながらも鎌倉時代から続く古い宿場として、また穂の先が紫色になる「むらさき麦」で知られています。
宿場の東入口に位置する「東棒鼻」(宿場の境であることを示す棒示杭が建てられていた)は、歌川広重の版画『藤川棒鼻ノ図』(毎年、朝廷へ馬を献上する幕府の一行がここ東棒鼻に入ってくるところを描いた)の原風景として有名で、この版画を彫った石碑が置かれています。
街道を西に進むと、問屋場跡、旅籠つるや跡、米屋、銭屋、本陣跡石垣、脇本陣跡(藤川宿資料館として「藤川宿街道模型」や「高札」等を展示)、西棒鼻、一里塚跡、「藤川の松並木」(岡崎市の天然記念物。約1㎞のあいだに90本ほどのクロマツが並ぶ)など宿場町景観が残されており、往時の風情を漂わせています。
藤川宿|岡崎市
藤川宿「街歩き観光マップ」|岡崎おでかけナビ
Network2010(東海道 藤川宿)
東海道藤川宿/紫麦と松並木そして広重に描かれた棒鼻がある宿場|愛知,名古屋の東海道を趣味で歩く会!愛知ウォーキング街道歩きクラブ
藤川宿/東棒鼻・本陣跡石垣・脇本陣跡(資料館)・西棒鼻(岡崎市藤川町)
歌川広重の版画『藤川棒鼻ノ図』を描いた石碑(岡崎市藤川町)
藤川の松並木(岡崎市藤川町)
東海道38番目の宿場「岡崎宿」
東海道五十三次の38番目の宿場「岡崎宿」は、徳川家康が生誕した岡崎城の城下町で、近世、東海道屈指の規模を誇る宿場町として賑わいましたが、この町を飛躍的に変えたのは秀吉家臣の田中吉政でした。吉政は家康の江戸入りの後に岡崎城城主となり、城下を拡張整備しました(岡崎城主・田中吉政のまちづくり<三河国土学②>)。
城郭・城下町の整備に関して、吉政は「東の徳川家康への備え」として強固な城郭を構築するため、岡崎城の城域を拡張し、石垣や城壁を整備して近世城郭につくり替えるとともに、それまで菅生川(乙川)の左岸(岡崎郊外)を通っていた東海道(鎌倉街道)を右岸の城下に引き入れ、この道を曲がり角の多いクランク状に整備することで、敵の大軍の攻撃を最大限防御し得るよう工夫しました(「岡崎二十七曲り」)。
また、城下町全体を堀と土塁でぐるりと囲む総構え(惣曲輪)構造とし、城の東に家臣団を、西に商人や職人を分けて住まわせる大規模な都市改造を計画、後世に繋がる城下町を整備しました。
江戸時代(泰平の世)に入って、岡崎は軍事拠点としての性質をほぼ失いましたが、東海道五十三次有数の宿場町として発展を続けました。岡崎二十七曲り(欠町から伝馬通、材木町から八帖町、矢作橋へとつながる)の街道筋には、現在でも当時の繁栄を偲ぶことのできる碑や常夜燈が残されています。
岡崎城|愛知県岡崎市公式観光サイト
岡崎宿東海道二十七曲り|愛知県の公式観光ガイドAichi Now
【まち歩き企画】歩いて、学んで!二十七曲りウォーキング|ぽけろーかる((株)まちづくり岡崎)
Network2010(東海道 岡崎宿)
東海道岡崎宿/徳川家康が生まれた岡崎城と二十七曲り|愛知,名古屋の東海道を趣味で歩く会!愛知ウォーキング街道歩きクラブ
大平一里塚|岡崎おでかけナビ(岡崎市観光協会)
岡崎城(岡崎市康生町)
岡崎二十七曲り(岡崎市)
大平一里塚(岡崎市大平町)
※岡崎宿の東入口(手前)には、「大平一里塚」がほぼ完全な形で残されています(国の史跡)。
東海道39番目の宿場「池鯉鮒宿」
「池鯉鮒※宿」は、東海道五十三次の39番目の宿場で、かきつばたの名勝八橋と、にぎやかな市場で知られる宿場町でした。特に、毎年4月末から5月初めにかけて、松並木の周辺で開かれた馬市には数百頭の馬が集められ、馬飼や馬の売買・仲介をする馬喰(ばくろう)のほか、商人、見物客らも訪れて市は大いに賑わったといいます。
池鯉鮒宿の場合、宿場としての面影はあまり残されていませんが、宿場の東には約500mにわたる松並木が今も残っており、宿場近くには「三河国二宮」の知立神社が鎮座しています。
ちなみに、「池鯉鮒※」は「知立」と同様に「ちりゅう」と読みますが、この地名は御手洗池(知立神社へ参拝する人たちが手を洗った池で、殺生禁断の池)に鯉や鮒が多く生息していたことに由来するともいわれています。
池鯉鮒(ちりふ)の歴史ウォッチング|知立市観光協会
Network2010(東海道 池鯉鮒宿)
東海道知立市宿(池鯉鮒)/馬市と知立神社で栄えた宿場|愛知,名古屋の東海道を趣味で歩く会!愛知ウォーキング街道歩きクラブ
知立神社
知立の松並木(知立市牛田町)
池鯉鮒宿/『池鯉鮒首夏馬市』・馬市の碑・本陣跡・知立古城跡(知立市)
知立神社と多宝塔(知立市西町)
※知立神社は「三河国二宮」として国司の祭祀を受け、江戸時代には「東海道三社の一つ」に数えられ、東海道を往来する旅人には「まむし除け」のご神徳で知られ各地にご分社ご分霊が勧請されました。
知立市内の旧東海道案内板
(今回の舞台)
(2023年09月24日)