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長洲町にある郷土遺産と「的ばかい」

★景行天皇肥後(九州)巡幸ゆかりの地、清正公時代から築造されてきた干拓地、島原大変・肥後迷惑の災害碑、四王子神社の的ばかい(破魔弓祭)など、長洲町には学ぶべき郷土遺産が沢山ある。

 熊本県北西部、荒尾市と玉名市に挟まれた地に位置する「長洲町」。北東部の一部地域を除けば、町のほぼ全域が沖積低地や干拓・埋立地からなり、有明ノリの漁場、稲作栽培地、臨海工業地区(造船、金属加工などの工場が立地)、長州港(島原半島の多比良港との間にフェリー運航)などが、郷土の産業・経済活動を支えている。  今回は、この「長洲町」にある郷土遺産と四王子神社の「的ばかい(破魔弓祭)」を取り上げた。

(長州港)

【景行天皇肥後(九州)巡幸ゆかりの地】 現在の熊本県の地域は、「火の国」→「肥の国」→「肥後国」→「隈本」→「熊本」と、その名称を変えてきた。 『日本書紀』によると、熊襲(九州南部に本拠地を構えヤマト王権に抵抗したとされる人々・地域)征伐後に葦北より不知火海(八代海)を北上した景行天皇(けいこうてんのう)一行が、不思議な火に導かれて到着した場所が八代県豊村(現・宇城市松橋町豊福)または火邑(ひのむら;現・氷川流域の村)であり、火の光の主を問うと、主は不明で、人の火ではなかったので、その国の名を「火の国」と名付けたとある。(「火の国」の由来については、「阿蘇山の火」説、「八代海の不知火」説、「氷川町の氷川(火川)」説などがあるが、一般的には、古墳時代のこの地域(火の国)最大の豪族「火の君」に由来するといわれている。) この景行天皇肥後(九州)巡幸に関して、長洲町には次の「ゆかりの地」が現存する。 ■長緒浜(ながすのはま)・・・玉名郡長洲町 『肥前風土記』に『景行天皇が玉名郡の長緒浜(長洲町)から使者を肥前国高来郡に遣わした』と記載。 ■姫ヶ浦(ひめがうら)・・・長洲町姫ヶ浦 日向御刀媛(ひむかのみはかしびめ)が景行天皇のあとを追って、長洲に来たものの既に天皇は発った後で、女官と共に海に身を投げて石になってと伝えられる。その石は名石神社(めいしじんじゃ)に祀られている。 ■腹赤の贄(はらかのにえ)・・・長洲町腹赤  『肥後国風土記逸文』に、景行天皇巡幸の折、漁師が魚を釣って献上した。マスに似ているが名が分からない。天皇は『物の多いのをニベサニといういう。この魚も多いので、にべ魚というべし』と名付けた。

 景行天皇九州巡行(古代史の復元)↓ http://www.geocities.jp/mb1527/N3-23-2keikoukyuushuu.html

 名石神社(肥後国くまもとの歴史)↓ http://yumeko2.otemo-yan.net/e466471.html

(名石神社)

(御刀媛が入水して石になったという『石』)

【清正公時代から築造されてきた干拓地】  長洲町の干拓も、肥後熊本藩初代藩主・加藤清正公による国土づくりの功績の一つ。正確には、玉名地域の干拓事業の一環として、長洲町域でも、清正公の時代から干拓事業が進められてきたということであり、岱明町扇崎と長洲町腹赤とのあいだに築堤して開いた慶長年間の「行末塘新地」(104町7反)、長洲町出町と堀崎とのあいだに築堤して開いた慶長11年(1606年)の「古塘新地」(60町)、同年に建浜と塩屋のあいだに築堤して開いた「菜切塘(なきりども)新地」(60町)、塩屋と平原のあいだに築堤して開いた「塩屋塘新地」(60町)など、海岸に沿って堤が築かれ広い干拓地が造成されてきた。

 寛文4年(1664年)に長洲村大明神と平原のあいだに築堤して開発された「新塘新地」は、費用は藩が拠出し、長洲・高浜・梅田・永方・塩屋の人びとが労力を提供して開いた干拓地で、12年かけて築造された石垣の堤防(海岸防潮堤)は、その後、何度も暴風や高潮などで農作物が被害を受けたため、江戸末期に松(防潮林)が植えられた。その松の姿は現在も受け継がれ、樹齢が100年を超えるものが300本ほど林をなしている。

 新塘/長洲町(熊本県総合博物館ネットワーク・ポータルサイト)↓ http://kumamoto-museum.net/blog/archives/chiiki/1257

(行末塘から長州港を望む)

(新塘と防潮林)

(新塘の説明板)

【「島原大変・肥後迷惑」を後世に伝える】

 今から225年前(寛政四年四月一日、西暦1792年5月21日)、雲仙普賢岳の火山活動により前山(眉山)が崩壊し、それにより引き起こされた大津波は両肥(肥前・肥後)の有明海沿岸の村々を襲った。のちに「島原大変肥後迷惑」として、日本の火山災害の歴史において最大の死者を出した(およそ1万5000人が亡くなった)大災害として記憶されてきた事象である。熊本県の災害碑(供養塔や記念碑)のなかで、同一の災害による碑の建立数が群を抜いて多いのがこの津波災害である。  ここ長洲町でも、津波により約600人が溺死し、長洲小学校近くの寺に埋葬されたが、明治24年に新山墓地に移され、昭和14年に『古墳改葬之碑』が建てられた。

(古墳改葬の碑:長洲町「新山墓地」)

【四王子神社の的ばかい(破魔弓祭)】  ここ長洲で、850年以上にわたり地域の信仰を集めているのが四王子(しおうじ)神社。御祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)、大碓命(おおうすのみこと)、景行天皇(けいこうてんのう)、御刀姫(みはかしひめ)の4柱。由緒については、「社帳旧記によれば、二条天皇の御世永歴元年(1160年)九月十五日、筑前国三笠郡四王子嶽より旧長洲村洲崎の浜の岩屋(現、金魚と鯉の里入口)に来現した御神体を、鍬之進が鍬で土を盛って台座を築き固め、注連之進が注連縄を張り廻らせて高御座を設けて奉斎したのが始まり(現、大明神区)。その後、数百年を経た一月十五日に現在の社地に遷宮した。大明神跡地は、住吉大神を奉祀する洲崎神社を創建し、現在まで境外末社として鎮座。本宮「的ばかい」はこの遷宮故事に由来する」とある。(四王子神社公式HPより引用)

  本日(1月21日)、当社で毎年恒例の「的ばかい(破魔弓祭)」が催行された。「ばかい」とは「奪い合う・取り合う」という意味の方言で、現在地への遷座後、御神体を安置した円座を氏子たちが御祭神の神徳・加護にあずかろうとして、諸災厄排除・豊漁・豊産・家運長久を祈念しながら奪い合ったことがその起源とされている。

円座をかたどった直径60センチメートル・重さ6キロのワラと麻で編まれた『的』を、多くの男衆が激しくぶつかり合いながら奪い合う。「まーと!まーと!」という威勢のいい掛け声、力水が白い水蒸気となってあがる光景は、観客を魅了した。

 四王子神社(公式HP)↓ https://sio-ji.jimdo.com/

(四王子神社)

(四王子神社)

(的ばかいの様子)

(的ばかいの様子)

(今回の舞台)

(2018年1月21日)

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