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火国造の祖・健緒組命と阿蘇十二神を祀る熊本市最古の神社「健軍神社」

★健軍荘(たけみやしょう)の産土神。八丁馬場(加藤清正時代の騎馬訓練場=参道)や西南の役・熊本隊出陣之所など「歴史の舞台」でもある。

 健軍神社(けんぐんじんじゃ)は、熊本県熊本市東区健軍本町に鎮座する熊本市最古の神社で、阿蘇神社(阿蘇市)、甲佐神社(甲佐町)、郡浦神社(宇城市)と共に「阿蘇四社」と称せられる。  社伝によると、古来この地には、国造社の神、火(肥)国造の祖である健緒組(たけおくみ)が祀られていた。健緒組は『肥前国風土記』や『肥後国風土記』逸文によれば、景行天皇の時代に益城郡朝来山の土蜘蛛を征伐した功績により肥(火)君(ひのきみ)の姓を賜ったといい、『国造本紀』によれば崇神天皇朝に火国造に定められたという。  その後、欽明天皇19年(558年)に阿蘇神社の大宮司に神託があり、同神社を勧請して、異賊鎮退のため西に向けて社を建て社号を「健軍」(たけみや)と称したという。  由緒板には、「欽明天皇(二十九代)十九年勧請の由来は、阿蘇神社神事祭祀執行の折々国司(藤原法昌)阿蘇神社へ供え物等運送するに夏は洪水旱魃、冬は、雪霜早く降りて五穀不熟を憐れみ、或る年冬十二月十三日国司阿蘇宮参詣の時此の原にて俄の大雪道路を塞ぎて進退に窮り椎の樹下に野陣を張り遙拝して国司心底に阿蘇大神を勧請し老弱者阿蘇参詣の労を救えればと念願なるに五更(現在の四時頃)の頃に至り三歳ぐらいの童子忽然として石上に現れ国司に向かい「汝阿蘇大神を尊信し二心なく厳寒積雪を厭はず此に来たりあまるに衆人遠路の労を憐れみ大神を此の地に勧請せんと願う神明何ぞ感応せらんや宜しく此処に勧請すべし、然るに阿蘇宮は皇城鎮護の為東に向かい当社は夷賊新羅鎮退の為西に向かい健軍(たけみや)と号すべし汝に託す吾則阿蘇大神也」と宜り終えて去り給ふ国司驚き感じ此由、見聞に依って、直ちに社宇を造建し阿蘇大神の荒霊を鎮祭して健軍社と号す。(文化四年の古文書より抜粋)」とある。  健軍神社は、健軍宮(たけみやぐう)や健軍村竹宮(たけみや)と呼ばれ、健軍荘(たけみやしょう)(現在の日赤病院周辺や小峰や新外、江津湖周辺の広い地域)の産土神社でもあった。「産土神(うぶすながみ)」とは、土(すな)を産み出す神、大地を始め万物を産み出す神で、その土地の守護神を指す。  天正年間、島津軍の焼打ちによって焼失したが、その後、肥後熊本藩初代藩主・加藤清正公によって再建された。健軍神社の参道「八丁馬場」は、長さが8町(約900m)だったというのがその名の由来で、清正公時代には騎馬訓練の馬場として利用されていた。(実際の長さは約1200mある)  健軍神社は、明治10年(1877年)西南の役で、薩軍を救援するため結成された熊本隊の挙兵の場所でもある。  昭和以降は、「たけみや」が「けんぐん」と音読されるようになり、現在の「健軍神社(けんぐんじんじゃ)」と呼ばれるようになった。

《御祭神》(健磐龍命から彌比咩命は「阿蘇十二神」)  ・健緒組命(たけおぐみのみこと)【健軍大神】・・・[火国造の祖・阿蘇大神の外祖]  ・天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)・・・[造化三神・別天津神]  ・仲津彦神(なかつひこのかみ)  ・仲津姫神(なかつひめのかみ)  ・健磐龍命(たけいはたつのみこと)・・・[神八井耳命の御子、神武天皇の御孫]  ・阿蘇津姫命(あそつひめのみこと)・・・[健磐龍命の妃]  ・神渟名川耳命(かむぬなかはみみのみこと)【綏靖天皇・神沼河耳命】・・・[神武天皇の御子]  ・日子八井命(ひこやゐのみこと)【草部吉見神・國龍命】・・・[神武天皇の御子]  ・國造速瓶玉命(くにのみやつこはやみかたまのみこと)・・・[建磐龍命の御子神]  ・比咩御子命(ひめみこのみこと)・・・[國龍神の妃]  ・彦御子命(ひこみこのみこと) 【惟人命】・・・[健磐龍命の御孫]  ・若比咩命(わかひめのみこと)・・・[彦御子神の妃]  ・新彦命(にひひこのみこと)・・・[國龍神の第一の御子]  ・新比咩命(にひひめのかみ)・・・[新彦神の女神]  ・若彦命(わかひこのみこと)・・・[新彦神の御子・新比売神の弟神]  ・彌比咩命(やひめのみこと)・・・[新彦神の妃]

(健軍神社・一の鳥居から八丁馬場を望む)

(健軍神社・二の鳥居)

(健軍神社・御神殿)

(健軍神社・由緒板)

(さざれ石)

(「健軍神社杉馬場」の碑)

(西南の役・熊本隊出陣之所)


(今回の舞台)

(2016年4月10日)

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