肥後の鉄道は、明治二十四年に来ました
★北九州市、福岡市、熊本市などの大都市を結ぶ九州随一の重要幹線「鹿児島本線」と、天草への観光ルートとしても脚光を浴びている「三角線」。開通当時は、熊本県の海の玄関口「三角西港」へのアクセス鉄道、熊本県内(九州管内)の「物流の要」として期待されていたという歴史を持つ。
「肥後の維新は、明治三年に来ました」という徳富蘆花著『竹崎順子』の有名な一節がある。「肥後の維新」は明治三年(1870年)になってようやく、横井小楠の弟子の徳富一敬(蘇峰・蘆花の父)や竹崎律次郎が立案し、新たに熊本藩知事となった細川護久のもとで始まった。雑税の廃止や教育改革(藩校時習館や再春館(医学校)を廃止し、新たに医学校や熊本洋学校を開校)等の藩政改革が、実学党政権のもと行われたのである。 肥後ではインフラの「御一新」も遅かった。明治新政府がとったインフラ整備政策の第一は、鉄道整備であり、明治五年(1872年)には我が国最初の鉄道路線(新橋~横浜間)が開通している。しかし、肥後において最初の鉄道路線が開通したのは、明治維新からほぼ四半世紀が経った明治二十四年(1892年)のこととなる。 九州初の鉄道路線は、民間の「九州鉄道」によって整備され、明治二十二年(1889年)十二月に博多~久留米千歳川仮停車場間が開通、その後、明治二十四年(1891年)四月には門司(現門司港駅)~博多間、久留米~高瀬(現玉名駅)間が開通し、これに続いて同年七月一日には高瀬~熊本間が開通した。このとき、熊本県内に設置された駅は、長洲、高瀬、植木、池田(現上熊本駅)、熊本の5駅であった。 「新熊本市史 通史編 第六巻 近代Ⅱ」(160~161ページ)によると、熊本までの鉄道路線が開通した日、「『九州日日新聞』は、「鉄道の開通を祝す」との社説を一面に掲げ、鉄道が単に軍事上の効力を有するだけでなく、「農工商業の開発開進を促し、運輸交通の便益を婚加しうることを認めざるを得ざるなり」と論じ、「此際特に我が親愛なる熊本人土に注意を請はざるを得ざるものは、農工商業の点に於て充分此の精鋭なる文明の利器を利用して、愈々我が物産を開発し、我が熊本の地位を高くし、以て利用厚生の道を遂ぐるにあるなり」と、産業発展への期待を寄せ鉄道の開通を祝している。『熊本新聞』も同日の社説に「熊本市民に乞ふ今日を祝せよ」と大きな見出しを掲げ、「九州の極北門司港へは今日より一日に往復することを得。日本の中心市場たる大坂の地には今日より一昼夜半にして達することを得。日本の帝都たる東京の地には今日より二昼夜半にして達することを得。(中略)汽笛は今日より響き、汽車は今日より開通す。熊本市運輸の便開け貨物の輯轄する夫れ今日より始まらん乎」と開通を祝っている。」 その後、熊本以南についても、熊本~川尻間が明治二十七年(1894年)、川尻~松橋間が明治二十八年(1895年)、松橋~八代間が明治二十九年(1896年)と、着実に鉄道路線の整備(延伸)がなされたのだが、これらの区間(現在のJR九州・鹿児島本線)から時を置かずして開通したのが九州鉄道・三角線(宇土~三角間)である。 もともと、熊本における鉄道論の初見は、明治十六年(1883年)三月の熊本県令富岡敬明による三角築港の付帯工事として持ちあがった「熊本~三角間」の鉄道敷設計画であった。その後、この計画は一時頓挫するのであるが、福岡・佐賀・熊本の各県令の民間への働きかけによって設立された「九州鉄道」が「門司~熊本~三角」を中心とした路線建設を計画したことで実現可能となり、三角線(宇土~三角間)は、明治三十二年(1899年)十二月に開通の運びとなった。
三角築港の計画と整備(土木史研究論文集)↓ http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00044/2004/23-0095.pdf#search=%27%E4%B8%89%E8%A7%92%E7%B7%9A+%E5%AF%8C%E5%B2%A1%E7%B8%A3%E4%BB%A4%27
熊本県の海の玄関口として先に竣工していた三角港(三角西港)と三角線(宇土~三角間)の海陸交通の一体化は、当時、「近来の大快事」としてマスコミでも大きく取り上げられた。「その一部をとりだしてみると、「九鉄三角線の開通は九鉄会社利益の為に肝要の敷設たると同時に、又た本県貨物呑吐の便利に至大の影響を与ふるが為肝要なりとす」「同港の築造同線路の開通は一部局の利益にあらずして本県全体共同の機関たらざる可らず」「同港と同線路と相須って初めて完全無欠なる本県の門戸たるの実を得るに至りたり」(「九州日日新聞」明治三二・一二・二三)というようなものであった。」(「新熊本市史 通史編 第六巻 近代Ⅱ」165ページ) しかしこの鉄道路線は、地形上の制約から三角西港へは連絡されず、熊本から半島北岸沿いにのびてきた三角線は赤瀬からトンネルを掘って背梁山脈をくぐり、半島の南側へ出て際崎を終点とすることとなった。その後、際崎に新港(三角東港)が開設されるに及んで、三角西港は次第に衰退していくこととなる。
現在、鹿児島本線(八代以北)は、九州の西岸を縦貫する重要幹線として、北九州市、福岡市、熊本市などの大都市を相互に結び、九州新幹線と役割分担しながら大量の人流(通勤・通学、生活、観光など)を受け持っている。また、JR貨物による貨物列車の運行も行われている。 一方、三角線は、宇土駅で鹿児島本線から分岐して、天草諸島の大矢野島に面し天草各地への船やバスが発着する宇城市三角町までを結んでおり、近年は、観光列車が通る観光ルートとしても脚光を浴びている。
特急A列車で行こう(JR九州)↓ http://www.jrkyushu.co.jp/trains/atrain/
(玉名駅)
(上熊本駅)
(熊本駅)
(JR九州815系電車)
(A列車で行こう)
(三角駅)
(三角東港)
(今回の舞台)
(2017年7月15日)
関連ページ(熊本国土学) <第9回>近代土木遺産&世界文化遺産「三角西港」の雄姿/明治のインフラ整備(2016/10/01)