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長六橋を渡る(薩摩街道の難所、熊本の玄関・シンボルという歴史を経て)

★加藤清正公によって白川に架けられた「長六橋」は、薩摩街道の難所(木製/土製の橋)、熊本の玄関・シンボル(鋼製橋)を経て、現在(PC箱桁橋)に至る。

【熊本城/内堀(坪井川)と外掘(白川)/城下町/街道】 天正16年(1588)、肥後に入国した加藤清正公は、隈本城(古城)のあった茶臼山南麓(現在の熊本第一高校付近)から東方へ城の中心を移し、茶臼山一帯を城塞化するとともに、城下町の整備拡張のため白川・坪井川の流路改修を計画する。  当時の白川は、現在の代継橋から長六橋にかけて大きく北側へ蛇行し、そこへ東から坪井川が合流していた。また、熊本城の西側を流れる井芹川は、二本木(現在の熊本駅南側)付近で白川に合流しており、流路が入り乱れて、氾濫が起きやすい状況であった。  そこで清正公は、現在の代継橋から長六橋にかけての蛇行部分の河道を締め切り、蛇行の始点から終点を掘り切って繋げ、流路を直線化することで、白川右岸に新たな土地を広げつつ、城の外堀としての防御機能を持たせた。また、白川と切り離された坪井川は、城の内堀として茶臼山の裾を西へ流下させ、下流で井芹川へ合流させた。

熊本城築城に伴う白川、坪井川改修(熊本河川国道事務所HP)↓ http://www.qsr.mlit.go.jp/kumamoto/river/shirakawa/rekishi/rekishi_01.html

熊本城築城に着手した清正公は、同時に城下町の整備にも取りかかった。熊本城の西側には新しい町屋・新町が形成され、南部の坪井川と白川の間には以前からの町屋を移して古町(現在の細工町・呉服町・唐人町)とした。城下を通過する街道も整備され、北に向かう豊前街道、東へ向かう豊後街道、南へは薩摩街道と日向往還に統一された。このうち、「長六橋」が架かる「薩摩街道」は、熊本市の札の辻(新町一丁目)を出発点とし、白川を下り、川尻、宇土、八代、日奈久、赤松太郎峠、田浦、佐敷、津奈木、水俣を経て薩摩に至る道であった(後に、薩摩藩の参勤交代の道となった)。

【加藤清正公によって白川に架けられた長六橋】  「長六橋」が最初に架けられたのは慶長6年(1601)で、その「(慶)長六(年)」をそのまま橋の名にしたのではないかと言われている。長六橋は白川に架けられた最初の橋で、橋を架けたのは加藤清正公。清正公は白川を熊本城の外堀に見立て、この橋を唯一の交通路とした。  関ヶ原の戦い後、天下は徳川氏の武力の下に統一されていたとはいえ、なお戦国時代の猛将達が残存し、何時如何なる機会を狙って猛然と決起してこないとも限らない状況であった。とりわけ、肥後の南方(薩摩)には島津氏が虎視眈々と控えており、清正公はこの南方の敵に対し、防御の砦として球磨川、緑川、加勢川等の大河川を活用した。そして、最後に白川をもって熊本城下直南の防備地帯とするために、その南岸にはいっさい市街を展開せず、ただ一つこの長六橋をもって行き来を行なわせたのである。

【江戸時代~明治時代中期までの木製(土製)の長六橋】  加藤清正公によって架設されて以降、長六橋は白川にかかる唯一の橋として、軍事・産業などのあらゆる面で利用されてきた。明治時代の富国強兵・殖産興業の政策を反映して白川に多くの橋が架けられるまで、長六橋は熊本の人々にとってなくてはならない存在であった。  しかし、一方では、長六橋は白川の度重なる氾濫のために幾度となく流失し、そのたびに架け替えを繰り返してきたという歴史を持っている。長六橋は薩摩街道の難所であった。  写真の長六橋は、明治29年(1896)10月に架設され同33年7月の水害で流失するまでの約4年間、人々の重要な交通路として利用されていたものである。

【昭和2年に完成した鋼製の長六橋】  長六橋は、慶長6年(1601)の架設以来、幾度となく流失をくり返してきた。しかしついに、大正12年(1923)の大水害で流失した木橋にかえて、長六橋を鉄橋にすることが同年の県議会で可決された。同13年の暮近くには国の補助も出ることとなり、熊本電気軌道株式会社も新路線敷設の為に寄付を申し出、同14年11月には起工式が行なわれた。当時の佐竹義文熊本県知事は「本橋梁は熊本市の南北を連結する要衝に当たり、交通上極めて重要の使命を有す。本県は一朝変災に遭遇するも、なおよく南北の交通を維持するに足るべき堅牢を旨とする永久的施設をなすの必要を痛感し・・・」と述べた。  こうして近代鉄橋の長六橋は昭和2年(1927)2月に完成、3月12日に開通式を挙行するに至った。開通式当日は、あいにくの雨にもかかわらず、多くの市民が詰め掛けた。「殺到せる群衆はわれ先にと渡り始め、さしもに広い橋上も一時は傘の波、人の波で到底老人、子供は通れない状態であった」と翌日付の九州新聞は伝えている。14日には「数万人が詰め掛けた」とも。大正14年(1925)10月の国勢調査で、総人口約14万人にすぎない熊本市民が、いかにこの橋の完成を待ち望んでいたかをうかがわせる。(以上、平成3年(1991)4月24日付け熊本日日新聞(夕刊)記事から)  新しい長六橋はトラス・タイド・アーチ橋 (Truss tied arch bridge) で、当時としてはたいへん豪華な橋であった。また、橋の中央には川尻電車が走っていたが戦後になって廃止され、その後一般国道3号として利用されるようになった。付近の川岸には遊歩道もでき、長六橋は熊本市の白川に架かるシンボルとして、永年の間、市民に親しまれた。また、昭和28年(1953)6月26日の「6.26白川大水害」の際には、白川に架かる橋のうち長六橋だけが無傷のまま生き残り、災害後の交通機能確保・災害復旧に大きく貢献した。そして、熊本市民にそこはかとない安心感を与えた。  なお、『地方史を通してみた旧長六橋の評価について』(熊本大学研究論文)によると、当時の熊本では、軍事的な事情からも、大規模で且つ堅牢である近代的な橋梁機能が白川の橋に求められており、新しい長六橋の架橋により、白川右岸(熊本城内)にある第六師団司令部と白川左岸(大江村渡鹿)にある主要編成部隊・歩兵第23連隊間の連絡路が常に確保され、如何なる事態でも重火器や兵員の移動が可能となった。

 地方史を通してみた旧長六橋の評価について(熊本大学研究論文)↓ http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00044/1997/17-0025.pdf

【平成2年に完成したPC箱桁橋の長六橋】 4万台/日以上の交通量を処理する現在の長六橋(一般国道3号)は、3径間連続PCポステン箱桁橋で、平成3年(1991)に完成した。長六橋の架替理由は、①白川の流下断面の確保(白川改修関連)、②旧長六橋(トラス・タイド・アーチ橋)の老朽化、③交通量の増加や車両の大型化による耐荷力の限界、④河原町交差点の円滑な処理(旧長六橋の右岸側にある河原町交差点は電車軌道を含めて変則的な交差点であるが、新設都市計画道路の連結も加わる5差路となって一層複雑になるため、交通渋滞・交通事故の多発化が危惧された)であった。 前述の『地方史を通してみた旧長六橋の評価について』(熊本大学研究論文)によると、旧橋から新橋への架け替えは、県都・熊本における長六橋の位置づけ(熊本城の玄関としての長六橋のポジション)を変える一大イベントであった。 「新橋の建設に合わせて、河原町側の国道3号はそれまでのものにくらべ大きな変貌を遂げた。交差点構造のシンプル化と白川改修計画に整合した橋面嵩上げを図るため、新長六橋の右岸側位置は上流へ大きく移動し、従来の河原町交差点から分離された。長六橋は、古来城下への主要なアクセスであり、“大正時代の熊本”までは城下町の入口に架かる街道の橋であることに変わりはなかった。平成期の架け替えで行われた河原町交差点からの分離により、新長六橋は、長六橋が代々継承してきた都心(熊本城)へのアクセス機能を喪失し、市街地中心を迂回する国道3号の単なる一国道橋という性格だけの橋梁になってしまったのである。また、今日の熊本市は白川で分断されており、そこに架かる各橋梁は都市基盤としての役割を担っているが、新長六橋の使命もこれらと同ーのレベルとなり、都市内に架かる一橋梁の地位に納まったということができる。」 平成3年(1991)5月2日付け熊本日日新聞(夕刊)記事には、「新しい長六橋は長さ約百二十三メートル、幅二十二メートル。水面からの高さ十一メートルで、旧橋を見下ろすほど。この高さと長さで、流量毎秒二千立方メートルという白川の緊急改修の目標値をクリアする。外観は旧橋のような圧迫感はなく、彫像も立つ現代風の開放感あふれる橋になった。  迎町側から旧橋を渡れば、正面には河原町、唐人町といった古町界わい。藩政時代から熊本の商業の中心地として栄えた土地だ。長六橋は代々「熊本の玄関」として架けられた橋。当然、その当時の市の中心・古町へ向かって橋は架けられた。「長六橋の向きは街の中心を示す“磁針”の役割を負っている」と言う人もいる。今回の架け替えではその“磁針”が大きく北に振れた。  六十数年の間に商業地の中心は、かつての古町地区から下通、手取本町へ動いた。街並みもすっかりビル街に。長六橋のの形も向きも変わったのは時代の流れだろうか。」とある。

(現在の国道3号・長六橋)

(白川に架かる橋梁群:大甲橋・安巳橋・銀座橋・新代継橋)

(白川に架かる橋梁群:代継橋・長六橋・泰平橋・白川橋)

(今回の舞台)

(2017年2月4日)

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