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熊本地震で被災した石橋を復旧する/地元技術者の熱い思い

★被災した石橋の復旧に誠心誠意取り組む「地元技術者たち」の技術力と熱い思いに感動させられた。さらに彼等は、この価値のある石橋の復旧プロセスを、地元小・中学生の学習材料として昇華してくれてもいた。まさに、国土教育の最先端の取り組みと言え、頭の下がる思いである。

【「恋人の聖地」としても有名な「二俣福良渡」の復旧】  熊本県は全国有数の石橋の宝庫である。県下に残る石橋の数は300を超えると言われており、特に県中央部を流れる緑川流域には、観光資源や歴史遺産としても有用な石橋が数多く分布している。しかし、平成28年熊本地震では、これらの橋の幾つかも大きな被害を受けた。美里町にある187年前の石橋「二俣福良渡」もその一つである。  緑川の支流の釈迦院川と津留川が合流する二俣地区に、地元の人々が「佐俣五橋(二俣五橋)」と呼ぶ橋の名所がある。川の合流点にあるL字型に連なる二つの石橋が「二俣渡(二俣橋)」と「二俣福良渡(第二二俣橋)」で、二俣渡は文政12(1829)年、二俣福良渡は文政13(1830)年に架橋されたと伝えられる全国でも珍しい兄弟橋である。さらに、二俣福良渡の横にはコンクリート製の「新橋」(昭和20年完成)が架かり、また、これらの3橋よりかなり高い位置(標高)に国道218号に架かる「新年禰橋」(昭和45年完成)と旧県道に架かる優美なコンクリートブロック積みの四連アーチ橋「年禰橋」(大正13年完成)がある。このうち、二俣渡と二俣福良渡は、かつては年貢米や木材を運ぶ重要物流路線として、戦後はバス路線として大いに活躍した橋梁で、現在は地区の生活道路(歩道)として機能するだけでなく、「恋人の聖地」として遠方から観光客を誘致する役割をも担っている。

 石橋物語:二俣橋/石橋ガイドブック「くまもと石橋くるりたび」(熊本県)↓ http://www.pref.kumamoto.jp/common/UploadFileOutput.ashx?c_id=3&id=2035&sub_id=1&flid=10&dan_id=1

熊本地震では、このうち二俣福良渡(橋長27m、アーチスパン約15m、幅約3m)が大きな被害を受けた。右岸側の高欄・壁石が上下流共に崩壊し、アーチ部材である輪石にも変形や亀裂が入るなど、被害の程度は甚大であった。  この二俣福良渡の復旧に立ち上がったのが地元・美里町であり、これを技術的にサポートしたのが熊本県内で測量設計コンサルタント業を営む(株)建設プロジェクトセンターの技術者たちである。彼等は、二俣福良渡が町道福佐線(=新橋)の歩道であることに着目し、いち早く道路の災害復旧を申請。地震発生からわずか7ヶ月で災害復旧事業(工事)着手に漕ぎつけた。さらに、災害復旧事業の実施に当たっては、二俣福良渡(=美里町指定文化財)の歴史的・文化的価値を後世にしっかりと残していくため、様々な技術的工夫をビルト・インした上で、石材を全て積み直すという難工事をマネジメントしていった。代表的な技術的工夫の内容は次の通りである。 ◆長尺締石の導入  被災前の状態に戻すことが「文化財復旧」の原則であるが、同じ構造で復旧したのでは、再度災害(熊本地震と同程度の地震の発生)に弱いままとなってしまう。そこで、復旧に当たっては、壁石2㎡当たり1本ずつの割合で、長さ90cm程度の「長尺締石」を用いるよう設計。石橋の長期安定性確保と建設当時の技術を保存するという二つの課題を両立させた。 ◆中詰割石の立体乱積仕上げ  中詰材はただの充填材ではなく、一つの構造体として丁寧に組み立てていく必要があった。本工事では、まず0.5立方メートル程度をクレーンにより投入し、これを人力で組み積み、その後、より密実にするため締固め機(ランマ)により転圧を壁石1段毎に実施する、というステップで中詰割石を積仕上げていった。 ◆打込はぎ(ダボ石)  地覆・束柱・高欄の復旧に当たって、その接続部の構造は伝統的な工法である「ダボ石接続」が採用された。ダボ(太枘)とは、2つの石材を接合する際、ずれを防ぐために両方に穴をあけて差し込む石材の小片のこと。既存の地覆・束柱・高欄の復旧には川石、新材地覆・束柱・高欄には花崗岩(切断石材)が用いられた。 ◆擬石による修復  既存石材の欠損部に対しては、擬石による修復(既存石材にSUS製アンカーピンを設置し、樹脂モルタルを複数層重ねることで修復する工法)が施された。 ◆再利用不可能な石材を活用した橋銘板の設置  地震により被災し、多数のクラックが生じて補強工の対象外となった石材(要石)は、橋銘板やベンチとして活用することで、往時の貴重な石材が後世に残されることとなった。なお、橋銘板には、学習効果を期待して、ダボ石が組み込まれている。

 さらに、施工段階では、種山石工(たねやまいしく:江戸時代、現在の八代市(東陽町)に居住していた国内最高峰の石橋築造技術を有する石工集団のこと。彼らは、江戸時代後期から明治・大正時代にかけて、肥後国だけでなく、全国に出向いて数々の石造りアーチ橋を築いていった)の技術を受け継いでいる(株)尾上建設の若手技術者(35歳)が石工の棟梁として活躍した。  こうして、関係者の尽力のおかげで、二俣福良渡の復旧は平成29年10月末に無事完了した。熊本地震発生から僅か1年半というスピードであり、質の高さはまさに「創造的復興」に相応しいものであった。  そして、私が(株)建設プロジェクトセンターの技術者たちの取り組みに更に感心させられたのが、この価値ある石橋の復旧プロセスを、地元小・中学生の学習材料として昇華してくれていたことであった。二俣福良渡の歴史と今回の災害復旧事業をわかりやすく説明する資料を作成し、これを用いて次世代を担う子供たちにインフラの重要性を教えてくれていたのだ。まさに、国土教育の最先端の取り組みと言え、頭の下がる思いである。感謝したい。

 〝光のハート〟 復活 熊本・美里町の二俣橋(産経フォト)↓ https://www.sankei.com/photo/story/news/171119/sty1711190002-n1.html

 崩落した187年前の石橋を復元/第二二俣橋復旧工事(日経コンストラクション20171113・有料)↓ http://tech.nikkeibp.co.jp/kn/atcl/cntncrd/15/171113/112400002/

(復旧した二俣福良渡)

(復旧した二俣福良渡)

(二俣福良渡のたもとから二俣渡を望む)

※二俣渡のアーチに陽光が差し込むと、川面に映る影がハート形を浮かび上がらせる。ただし、光のハートが楽しめるのは、太陽の角度が低い10月から2月までの5カ月間、正午ごろまでの約30分間だけという。

(要石を活用して造った橋銘板の前で)

※向かって左から、佐々木憲幸氏((株)建設プロジェクトセンター)、中村秀樹氏(同)、筆者。

(この地は「恋人の聖地」」としても有名)

【その他、緑川流域にある石橋の復旧状況】 <通潤橋>  「通潤橋」は、水の便が悪く水不足に悩んでいた白糸台地(現・熊本県上益城郡山都町)に住む民衆を救うため、江戸時代後期、時の惣庄屋・布田保之助が、種山石工の持つ技術を用いて建設した石橋。日本最大級の石造アーチ水路橋で、国の重要文化財に指定されている。 平成28年熊本地震では、「通潤橋」も大きな被害を受け、橋上にある通水石管の継目から著しい漏水が生じ(橋梁本体部)、さらに周辺部でも水路法面の崩落等が生じた。  現在は(これまでに)、保存修理工事が鋭意進められ、平成30年内の完成が期待されていたが、2週間前(平成30年5月7日)の雨の影響で、石垣の一部が新たに崩れたことから、工事完成の見通しは立たなくなっている。

 石橋物語:通潤橋/石橋ガイドブック「くまもと石橋くるりたび」(熊本県)↓ http://www.pref.kumamoto.jp/common/UploadFileOutput.ashx?c_id=3&id=2035&sub_id=1&flid=22&dan_id=1

国指定重要文化財「通潤橋」の被災状況と復旧工事の見通しについて(山都町HP)↓ http://www.town.kumamoto-yamato.lg.jp/life/pub/detail.aspx?c_id=46&type=top&id=613

 重要文化財「通潤橋」保存修理工事(1)掘削作業を開始しました(山都町HP)↓ http://www.town.kumamoto-yamato.lg.jp/life/pub/Detail.aspx?c_id=46&id=823&pg=1&type=list

 重要文化財「通潤橋」保存修理工事(2)石垣の修理を行いました(山都町HP)↓ http://www.town.kumamoto-yamato.lg.jp/life/pub/Detail.aspx?c_id=46&id=945&pg=1&type=list

 重要文化財「通潤橋」保存修理工事(3)漏水箇所の修理(漆喰の詰め替え)を行っています(山都町HP)↓ http://www.town.kumamoto-yamato.lg.jp/life/pub/Detail.aspx?c_id=46&id=1042&pg=1&type=list

 通潤橋、年内に復旧へ 工事完了前倒し 放水再開は未定 山都町(熊本日日新聞)↓ https://this.kiji.is/336701900311594081?c=92619697908483575

(保存修理工事が進む通潤橋)

(保存修理工事が進む通潤橋)

(保存修理工事が進む通潤橋)

<八勢目鑑橋>  八勢の大谷(八勢川)は、石橋(=「八勢目鑑橋」)が架けられるまでは「日向往還最大の難所」と呼ばれていた。谷の傾斜はひどく、長雨になると川は激流となり、人馬が足を滑らせ転落し命を落とすことも度々あったといわれている。そして、これをみかねた御船の豪商・林田能寛が私財を投じ、住民の安全を守ろうと、安政2年(1854年)に完成させたのが「八勢目鑑橋」。以来人馬の犠牲は無くなったという。 平成28年熊本地震では、「八勢目鑑橋」も大きな被害を受け、左岸上流側取付石垣が崩壊、勾欄(こうらん)も損壊・落下した。  現在は、昨年(平成29年)5月から始められた復旧工事も無事完了し、往時の姿が蘇っている。今年4月4日には、現地で林田能寛の遺徳をしのぶ「能寛祭」も開催され、地元住民や町商工会員ら約40人が桜の苗木を植えて、八勢目鑑橋の復旧を祝った。

 石橋物語:八勢目鑑橋/石橋ガイドブック「くまもと石橋くるりたび」(熊本県)↓ http://www.pref.kumamoto.jp/common/UploadFileOutput.ashx?c_id=3&id=2035&sub_id=1&flid=24&dan_id=1

八勢目鑑橋(御船町観光ホームページ)↓ https://www.mifune-kankou.jp/spot/505/

 熊本地震で被災の県重要文化財「八勢目鑑橋」復旧 地元住民が桜植樹で祝う(熊本日日新聞)↓ https://this.kiji.is/354490904096261217?c=92619697908483575

(復旧工事が完了した八勢目鑑橋)

(復旧工事が完了した八勢目鑑橋)

<下鶴橋>  御船町の中心部から御船川に沿って国道445号を矢部に向かう途中に下鶴と呼ばれる地区があるが、御船川の支川・八勢川が御船川に合流するこの地には、二本の橋が架かっている。交通量の増大と車両の大型化によって昭和43年に建設されたコンクリート橋(新橋)と、その上流(奥)にひっそりとたたずむ石橋(=「下鶴橋」)である。  「下鶴橋」は、明治19年(1886)に架設された比較的新しい石橋で、東京の二重橋や日本橋、矢部の通潤橋など数多くの眼鏡橋を手掛けて天下にその名をうたわれた名石工橋本勘五郎、弥熊父子によって造られた。手すりの石は「丸型」に仕上げられ、また、親柱には飾り石を兼ねた押え石を配し、それぞれ徳利と杯、満月と三日月が掘り抜かれるなど、技術と遊び心が融合した興味深い石橋となっている。 平成28年熊本地震では、「下鶴橋」の勾欄(こうらん)が損壊・落下し、壁石に亀裂が入ったため、現在は、二俣福良渡と同様のチーム((株)建設プロジェクトセンターの技術者たちと、(株)尾上建設の若手技術者(石工の棟梁)等)によって、復旧工事が進められている。

 石橋物語:下鶴橋/石橋ガイドブック「くまもと石橋くるりたび」(熊本県)↓ http://www.pref.kumamoto.jp/common/UploadFileOutput.ashx?c_id=3&id=2035&sub_id=1&flid=23&dan_id=1

(復旧工事が進む下鶴橋)

(石橋復旧に取り組む技術者とともに)

(今回の舞台)

(2018年5月20日)

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