港湾都市「八代」の歴史(港湾都市の発達➂)
★中世の八代は、中央の権力に直結した港湾都市として発展。「徳淵の津」は、3代の八代城(古麓城・麦島城・松江城)とともに、貿易商人で賑わった。近年は、物流拠点としてだけでなく、海外の大型クルーズ客船の寄港も相次ぐなど、東アジアのゲートウェイとしての機能も発揮しつつある。
八代は、古くから中央権力に直結した都市的要素を帯びた土地であった。その最大の理由は、対外貿易港としての機能。平安時代末期には日宋貿易を重視した平清盛の所領であり、鎌倉時代になると執権北条氏の所領となった。建武政権下においては、後醍醐天皇から名和氏が八代荘地頭職を賜り、名和氏の支配を受けるようになった。16世紀初頭、球磨郡から相良氏が八代に進出し、約80年にわたる芦北郡を含む三郡支配の戦国大名として君臨した。その後、島津氏の支配を受け、天正15年(1587)には豊臣秀吉の九州制圧を迎えることになる。秀吉は八代を蔵入地(直轄領)にしたと言われる。 天正15年(1587)、八代滞在中の豊臣秀吉を訪問したイエズス会(司祭)ルイス・フロイスは、著書『日本史』の中で当時の八代を、「この地がいかに美しく、清らかで豊饒であるかは容易に説明できるものではない。まるで日本の自然は、そこに鮮やかな技巧による緞帳を張ったかのようであり、その地の美と快適はひとしお際立つものがあった。そこには、幾つもの美しい川が流れ、多数の岩魚が満ちあふれている。海は城の麓にある主要な町に入る一里手前まで入り込み、その町へは海路からでなくては入ることも登ることもできないようになっている。これは一層その地を安全に確保せんがためである。見渡す限り、小麦や大麦の畑が展開し、清浄で優雅な樹木に覆われた森には多くの寺院が散見し、小鳥たちの快い囀りが満ちあふれている」と表現している。南蛮人(ヨーロッパ人)から見ても、当時の八代は、大変魅力的な都市であった。
天正15年(1587)の九州征めの際に、豊臣秀吉が滞在したことで知られる初代・八代城「古麓城」は、南北朝時代から戦国時代にかけて名和氏・相良氏が球磨川東側の山々に築城・整備した山城の総称。当時、周辺には、妙見宮(現・八代神社)など数多くの社寺が立ち並び、政治・経済の中心(城下町)として栄えた。 相良氏領下の時代には、球磨川河口に位置する外港「徳淵の津」を基点とする国際貿易で八代は栄えた。相良氏は主に琉球貿易を行ったが、町衆による中国貿易も盛んであった。 その後、天正16年(1588)に秀吉から八代の統治を任された小西行長は、古麓城を廃城とし、新たに八代支配の拠点として、徳淵の津に隣接するところに2代目・八代城「麦島城」を築いた。麦島城は、関ケ原の戦いの後は、肥後熊本藩初代藩主・加藤清正公の支城となり、清正公没後、城代として筆頭家老・加藤正方が入ったが、元和5年(1619)の地震で倒壊。正方は、北側の松江地区に3代目・八代城(=現在の八代城「松江城」)を新築し、現在の八代城下町の基礎を造った。 江戸時代、八代は肥後熊本藩主・細川氏の筆頭家老松井氏の城下町として栄えた。八代は薩摩街道と球磨川水運の交わる重要な土地で、良港である徳淵の津を有し、肥後や九州の水陸交通の重要な拠点として発展した。江戸時代、徳淵の津には、船着場や荷揚げ場、番所があったが、現在では、石灰石でできた石段が残るのみである。
現在の八代港は、九州の真ん中に位置する地理的優位性や九州各県を結ぶ良好な交通アクセス(交通の大動脈である九州縦貫自動車道及び現在整備が進められている南九州西回り自動車道の結節点に位置する)、及び水深14m大水深岸壁などの利便性を活かして、熊本県域を越えた九州産業の物流を支えるとともに、国際物流拠点としての役割も担っている。 さらに最近は、海外の大型クルーズ客船の寄港も相次ぐなど、人流拠点としての機能も発揮しつつあり、東アジアのゲートウェイとして、今後、ますますの発展が期待されている。
八代港(河港)の歴史について(16~19ページ)↓ http://www.qsr.mlit.go.jp/yatusiro/site_files/file/river/utsukushi/kankyodesign/02_shiryo1.pdf
八代港(熊本港湾・空港整備事務所)↓ http://www.pa.qsr.mlit.go.jp/kumamoto/kowansyokai/yatsushiro/index.html
八代港(熊本県)↓ http://yatsushiro-port.jp/
(徳淵の津跡:石灰石でできた石段)
(徳淵の津跡)
(徳淵の津跡:説明版)
(麦島城跡)
(八代城(松江城)跡)
(八代港:外港)
(八代港:フェリー乗り場)
(今回の舞台)
(2016年11月20日)