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大津町にある清正公遺産と上井手用水

★豊後街道(清正公道)、下井手、上井手、・・・。交通条件に恵まれた田園産業都市「大津町」は、肥後熊本藩初代藩主・加藤清正公時代からのインフラ整備によって現在も大きな恩恵を受けている。

【大津町にある清正公遺産】  熊本と阿蘇の中間に位置する「大津町」は、戦国期肥後の豪族合志氏の支配下に属し、その支族大津十郎義廉(氏不明)が東嶽城(現日吉神社地)を築き、城下に集落を形成したことに起源を持つと伝えられている。  そして、現在の大津町の礎を築いたのが肥後熊本藩初代藩主・加藤清正公。清正公は、阿蘇山を源としてこの地を東西に貫流する白川に「瀬田堰」を設け、「下井手」(農業用水路)の整備を行なった。その後、細川氏により整備された「上井手」とあわせ、大津町域は1300町歩に及ぶ一大穀倉地帯となった。  また、清正公によって整備された「豊後街道」によって、江戸期には細川藩主参勤交代の宿場町となり、さらに近隣52村余りを統轄する藩政の役所である大津手永会所が設けられたことで、大津町は周辺地域一帯の政治・経済・文化の中心として栄えてきた。  現在、大津町は国道325号(久留米~阿蘇~延岡)、国道57号(長崎~雲仙~大分)、JR豊肥本線が縦・横断し、熊本空港、九州縦貫自動車道熊本ICを近くに擁する交通条件に恵まれた田園産業都市として、発展を続けている。

 大津町の紹介(大津町)↓ http://www.town.ozu.kumamoto.jp/product.html

(大津手永会所の御客屋門:上井手公園)

(上井手と水車:上井手公園)

【豊後街道(清正公道)】  肥後熊本藩(加藤家)は五十四万石の大藩で、その領地の大部分は肥後国にあったが、豊後(大分県)の久住から鶴崎(大分市内)の港まで細長い地域に二万三千石を領していた。日本海・東シナ海側から太平洋側まで連なる全国でも例のない領地を有していたのである。  このような飛び地を確保したのは、豊臣家の忠臣・加藤清正公が有事に大阪方面へ駆けつけるためと伝えられている。この熊本~鶴崎を結ぶ街道が「豊後街道」で、清正公が拓き、政治、経済、軍事の重要なルートとして整備された。  豊後街道は、札の辻(熊本市)を起点として、菊地郡大津町、阿蘇市の二重峠を越え、内牧を経て大分の久住、豊後鶴崎に至る全長約124km(31里)の街道で、途中、二重峠、滝室坂、大利・境の松の山越えと難所が幾つもあったが、清正公はこの街道の整備に力を注ぎ、特に城下から大津までは幅二十間の一大杉並木街道を造り上げ、厳しいお触れを出して樹木を保護した。この大津街道は熊本城や大河川工事と共に清正公の構想の雄大さを今日に伝えるものとなっている。  江戸時代になると、この街道は細川藩が参勤交代路として活用。そのため、二年に一度は大名行列が通ることになり、各地に宿場が誕生した。

 くまもと四街道をめぐる・豊後街道(熊本県菊池地域振興局HP)↓ http://kumanago.jp/contents/yonkaido/map_bungo_index.html

 豊後街道のうち、菊池郡大津町から阿蘇郡阿蘇町二重峠までの道は、加藤清正公にちなんで「清正公道」と呼ばれている。  江戸後期の寛政4年に大津を訪れた国学者、高山彦九郎は道中日記を残し、当時の清正公道の様子について、「道はきりさけたるものにて、左右之堤高き所に至りては1丈余(3メートル)あり。(中央は)切りさげし道にて水さがり悪きを計り、道之中高く、左右に溝を掘りたり。」と述べている。現在は、片側1車線の車道の両側に高さ3メートルの土手道が通っている高尾野付近にその面影を見ることが出来る。

(高尾野清正公道)

(参勤交代をイメージして整備された清正公道公園)

(国道57号迂回路として16,000台/日の交通を処理するミルクロード。

熊本地震は清正公道を熊本~大分間の大動脈として蘇らせた)

【瀬田堰と下井手】  大津町瀬田にある「瀬田堰」と「下井手」は、清正公が入国早々の天正17年(1589)に手掛けた大工事の一つである。もともと下井手は奈良初期(和銅年間)に開削されたと伝えられるが、埋没して遺跡化していたものを、清正公が改修に着手し、慶長3年(1598)竣工、二代藩主忠広公が元和中に補修し完成した。これによって、約270町の田畑が潤ったと云われている。なお、堰の近くの白川には、流れを遮るかのような巨大な石が横たわっているが、これは「兜岩」と呼ばれ、阿蘇大明神が兜を脱いで蹴飛ばされたのが石となったという伝説がある。

 上井手・下井手とその土木遺構群の構造的特徴について(土木学会論文)↓ http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00035/2008/63-04/63-04-0191.pdf

(現在の瀬田堰)

(瀬田堰から取水して流れる下井手)

【上井手用水】  「上井手」は、大津町瀬田「鍋倉の瀬」の取水口から白川の水を引き、大津町の中心部を貫いた後、菊陽町古閑原から鉄砲小路の北側で「堀川」と名を変え、合志市を経て、熊本市飛田で坪井川に合流する全長約24kmの農業用水路。清正公が構想し、二代藩主・加藤忠広公が元和4年(1618)に着手、後を引き継いだ細川綱利公の代に坪井川まで完成したと伝えられている。  上井手の整備によって、荒廃した大津・菊陽の台地に水が引かれ、334町の美田が開かれた。また、上井手は、熊本城へ米を運ぶ交通手段として活用されたり、水車による製材・精米業に利用されるなど、大津町・菊陽町の経済発展に大きく寄与した。今も大津町・菊陽町に至る450haの水田を潤す一方で、北部地域の排水路としての機能も果たしている。

 上井手用水/疏水名鑑(全国水土里ネット)↓ http://midori.inakajin.or.jp/sosui_old/kumamoto/a/315/index.html

 上井手用水/熊本県の疏水百選(水土里ネット熊本)↓ http://www.higosanae.or.jp/sosui/sosui_kuma.html

 「命の水」※上井手用水の紹介動画(大津町)↓ https://www.youtube.com/watch?v=MoQTBkAYRqc

(現在の上井手堰)

(上井手取水口)

(上井手と瀬田神宮)

(上井手・塘町筋)

(上井手と光尊寺橋)

(今回の舞台)

(2018年2月25日)

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