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肥後熊本の桜/2017年・春

★熊本のシンボル「熊本城」をはじめ、本妙寺、田原坂、人吉城跡など、肥後熊本には「満開の桜」が似合う場所があり、歴史がある。1年前に歴史的大地震に見舞われた熊本だが、被災地を含め、今年も満開の桜花で彩られた。

【桜と日本人】 桜(サクラ)は日本文化に馴染みの深い植物である。開花のみならず、散って行く儚さや潔さも、愛玩の対象とされてきた。江戸時代の国学者、本居宣長は「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」と詠み、桜が「もののあはれ」などと基調とする日本人の精神具体的な例えとみなした。  フランスの歴史学者フェルナン・ブローデルは、日本(人)のことを次のようにまとめている。「きわめて早く6世紀頃から中国的日本とでもいうべきものが存在してきたし、1868年からは西洋的日本がはじまり、その大成功は内外から認められている。しかし、こうした数々の重要な経験のそれぞれも、つまりは「日本的」日本の中に溶けこんでしまっている。この「日本的」日本なるものの島嶼的独自性は疑問の余地のないものなのである。小庭園と茶道と満開の桜の国では、中国経由で伝来してきた仏教でさえも日本風につくりなおされてしまう。」

【田原坂公園の桜】  「田原坂」は、日本最大、最後の内戦である「西南の役」の激戦地。政府軍と薩摩軍による此の地での戦い(田原坂・吉次峠の戦い)は、明治10年(1877年)3月1日から3月31日まで1ヶ月間にもわたり繰り広げられた。田原坂はカーブが多く、また道幅も狭い。攻めるに攻めにくく、守るに守りやすい地形にある。加藤清正公が熊本の北の防衛に欠かせないものとして意図的に築造した凹状の田原坂は、長く連ねた丘陵地の地形とともに守るに守りやすい構造であった。当時はまだ、この道だけが唯一、大砲をひいて通れる道であり、この坂を占領しなければ政府軍の砲兵隊は熊本城まで進めなかった。  田原坂は、現在は公園として整備され、激戦の跡が生々しい弾痕の残る家(復元)や慰霊塔も建っており、現在は桜の名所としても知られている。

(田原坂公園の桜/2017年・春)

(眼下を望む)             (弾痕の家)

(二の坂)                (慰霊塔)

【熊本城の桜】  熊本のシンボル「熊本城」は、肥後熊本を代表する日本史の舞台でもある。熊本城を築いた初代肥後熊本藩主・加藤清正公は、治水、街道整備、新田開発などに力を入れて領民に慕われ、今でも熊本では「せいしょこさん」と呼ばれている。加藤氏改易後の江戸時代の大半を熊本藩細川家の居城として過ごした後、築城から270年が経過した1877年(明治10年)、熊本城は日本史の舞台として脚光を浴びる。「西南戦争」である。西郷隆盛率いる薩摩軍が政府軍の拠点となった熊本城を攻めたが、薩摩軍は城を落とすことができなかった。西郷は西南戦争に敗れて自決する際「わしは官軍に負けたのではない。清正公に負けたのだ」という言葉を残したと言われている。その後終戦前までは、「軍都熊本」の名前にもあるように、熊本城には陸軍第6師団の司令部が置かれていた。  熊本地震からまもなく1年を迎える今日(2017年4月9日)、熊本城のサクラが見頃を迎えた。地震の影響で立ち入りが制限されている行幸坂も特別に開放され、多くの人で賑わった。

 熊本城・公式サイト↓ https://kumamoto-guide.jp/kumamoto-castle/

(熊本城と2017年の桜/熊本地震で大きな被害を受けた未申櫓)

(飯田丸五階櫓)           (宇土櫓・大天守・戌亥櫓) (行幸坂の賑わい)          (桜の馬場城彩苑の賑わい)

(復興城主になりました)

【本妙寺の桜】  加藤清正公を祀る浄池廟があることで知られる発星山「本妙寺」。毎年、この季節には、地域住民と大学の連携により『本妙寺桜灯籠』が開催され、満開の桜の花々とともに、幽玄な和紙灯籠・竹灯篭の輝きで本妙寺参道は美しく彩られる。が、今年は昨年の熊本地震の影響で残念ながら中止。熊本地震からの復旧・復興と併せ、来年は『本妙寺桜灯籠』が開催されることを期待したい。

 本妙寺花燈籠・公式サイト↓ http://hanatourou.com/index.html

 本妙寺・公式サイト↓ http://www.honmyouji.jp/

(本妙寺浄池廟と2017年の桜/熊本地震で大きな被害を受けた)

(加藤清正公像)            (公園からの眺め) (浄池廟)                (参道の桜)

【人吉城跡の桜】 日本百名城の一つである「人吉城跡」は、鎌倉時代から幕末までのおよそ700年間、相良家の中心だった中世城趾で、球磨川と胸川を堀がわりにした特異の築城と、江戸時代末期に施された石垣のはね出し武者返しが、わが国の築城史上でも珍しい遺構とされる。1877年(明治10年)の「西南の役」では、人吉城は西郷隆盛軍の拠点となり激しい戦闘が行われた(その際、ほとんどの施設が破壊され、石垣だけが残るのみとなった)。  現在は、人吉城公園として整備され、春には相良護国神社境内と、球磨川沿いの石垣に沿って咲く桜が見事であり、多くの花見客で賑わう。

(相良護国神社境内の桜/2017年・春)

(球磨川沿いの石垣に沿って咲く桜/2017年・春)

【花岡山の桜】

(花岡山官軍墓地の桜/2017年・春)

(阿蘇殿松跡)              (加藤清正ゆかりの兜岩) (熊本バンド結成の碑)                (仏舎利塔)

【水前寺成趣園の桜】

(水前寺成趣園の桜/2017年・春)

【健軍自衛隊通りの桜】

(健軍自衛隊通りの桜/2017年・春)

【西南の役・熊本隊出陣の碑の桜と健軍神社】

(西南の役・熊本隊出陣の碑の桜と健軍神社/2017年・春)

【青井阿蘇神社の桜】

(青井阿蘇神社の桜/2017年・春)

【白川~事務所の桜】

(一級水系・白川の桜(大甲橋付近)/2017年・春)

(保田窪放水路の桜/2017年・春)

(熊本河川国道事務所の桜/2017年・春)

(今回の舞台)

(2017年4月9日)

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