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熊本市街地発展の歴史(城下町から軍都、新市街を経て桜町再開発へ)

★初代肥後熊本藩主・加藤清正公によって造られた「城下町・熊本」の武家屋敷跡地は、「軍都・熊本」の山崎練兵場、近代熊本の「新市街」としての活用を経て、現在、平成31年(2019年)夏のオープンを目標に「桜町地区再開発事業」が進められている。

【災害復旧工事が進む熊本城】  昨年4月に発生した熊本地震によって大きな被害を受けた熊本城。その復旧工事が本格化している。工事用ネットで覆われた天守閣大天守は、最上階(6階)部分の解体作業を終え、今月から再建に向けた作業(鉄骨を組み直す作業)に移るとのこと。大天守は平成31年(2019年)、小天守は平成31年(2021年)の復旧を目指している。

(復旧工事が進む熊本城天守(奥)、宇土櫓(手前))

【明治熊本地震と陸軍第六師団】  今回発生した熊本地震によって、あらためて記憶(記録)がよみがえったのが、明治22年(1889年)7月28日に発生した熊本地方(金峰山南東麓附近)を震源とするM6.3の直下型地震。この明治熊本地震では、熊本市周辺で被害が発生し、20人が死亡、数百棟が全半壊し、熊本城も大きな被害を受けた。熊本城の被害については、石垣42 箇所で崩落、20 箇所で膨らみが生じ、崖7 箇所が破損したという詳細な記録が残されているが、この記録を残した主体は当時の陸軍第六師団である。そして、多額の復旧費用を捻出したのも、復旧工事を実施したのも陸軍第六師団であった。なぜか? 当時、熊本城は陸軍の管理下にあり、熊本城を管理していた陸軍第六師団によって、これらの仕事がなされたのだ。

 明治熊本地震(国立科学博物館ホームページ)↓

【城下町から軍都へ】  初代肥後熊本藩主・加藤清正公によって造られた「城下町・熊本」。江戸時代には、御花畑邸、武家屋敷、町屋(古町、新町、坪井町、京町など)が配置され、城下町としての賑わいを見せていた。  熊本駅と熊本城の間に位置する『新町・古町』地区は、現在も往時の面影を色濃く残している。

 新町・古町の町並み | 観光地 | 熊本市観光ガイド↓ https://kumamoto-guide.jp/spots/detail/221

 熊本市新町・古町地区の城下町の風情を感じられる町並みづくり事業(熊本市ホームページ)↓

(新町・古町の町並み(中唐人町))

(古町の絵図(中唐人町))

 明治4年(1871年)の廃藩置県によって熊本県の県都(県庁所在地)となった熊本市(当時は区)は、薩摩の不平士族に対する備えとしての「鎮西鎮台」(明治政府によるはじめての軍隊組織、後の「熊本鎮台」)を迎えることとなったのだが、その結果、明治10年(1877年)の西南戦争によって町は全壊。これが熊本の町そのものを大きく変えることになる。軍都・熊本としての発展である。  鎮西鎮台は、明治21年(1888年)に第六師団に改組され、熊本市はその衛戍地となった。師団司令部が置かれた熊本城を中心に、熊本城内と武家屋敷跡には、歩兵第十三連隊、工兵第六小隊、砲兵第六大隊、予備砲兵第三大隊などの兵舎が相次いで設置され、山崎(現在の辛島町、練兵町などの熊本中心地)の武家屋敷跡地の大部分も練兵場に変わった。そして、日清戦争や明治35年(1902年)の天皇を迎えた軍事演習などを経て、熊本市は軍都としての性格を強めていった。

 熊本-緑に包まれた壮大な城郭を頂く肥後藩都-↓ http://www2.koutaro.name/machi/kumamoto.htm

【山崎練兵場の移転=辛島市政】  明治22年(1889年)4月1日の市制施行当時、4万2千余人であった熊本市の人口は、明治30年(1897年)には5万8千人弱となり、熊本市中心部は更なる発展が求められていたが、当時、この地(武家屋敷跡地)は陸軍の山崎練兵場に占有され、これが熊本市の発展にとって大きな障害となっていた(南の古町と北の坪井町が練兵場で分断され、商工業の発達を阻害していた)。  こうした中、時の熊本市長・辛島格はこの山崎練兵場の郊外移転に奔走。幾度もの交渉の末、陸軍当局側の事情(当時は日清戦争後の軍備拡張時代であり、部隊・兵力の増強、装備の発達を図る必要があったが、市中心部の山崎練兵場では手狭となっていた)もあって、ようやく移転交渉が成立。明治33年(1900年)には、山崎練兵場の用地は熊本市の所管に移り、練兵場は渡鹿に移転した。  その後、市街地に広大な用地を得た熊本市は、発展に向けた都市計画を実行。練兵場跡地には縦横の道路網が整備され、「練兵町」や当時の市長・辛島格の姓から取られた「辛嶋町」などが整備された。後に、ここ一帯は「新市街」と呼ばれ、一大繁華街へと発展してゆく。また、中央官庁の出先機関も誘致された(その先駆けとして煙草専売局が建設された)。  ちなみに、明治33年出版の『鉄道唱歌』において、「九州一の大都会 人口五万四千あり」と歌われているとおり、この時期の熊本は、陸軍の第六師団、中央官庁の出先機関、そして旧制五高を擁する九州一の大都市であった。

 五十一、   眠る間もなく熊本の 町に着きたり我汽車は 九州一の大都会 人口五万四千あり  五十二、   熊本城は西南の 役に名を得し無類の地 細川氏のかたみとて 今はおかるる六師団

 辛島市政における熊本市街地の近代化(土木学会西部支部研究発表会(2010.3))↓ http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00074/2010/54-04-0045.pdf

【近代熊本市の三大事業=高橋市政】  大正時代に入り、熊本市は近代都市化を加速させていく。その骨格となったプロジェクトが、①上水道の整備、②市電の開通、③歩兵第二十三連隊の移転の完了(=近代熊本市の三大事業)である。  上水道(膨張する都市人口を賄うための上水の確保)については、検討開始から十年以上の時間を要したが、大正13年(1924年)に八景水谷や立田山を水源とする上水道網が完成した。また、市内の公共交通機関として、明治40年(1907年)に熊本軽便鉄道が開業し、これは大正時代に熊本電気鉄道を経て熊本市電へと変わっていった。そして、最も大きな課題であった(市の最中央部を占有していた)歩兵第二十三連隊の移転問題については、「本市商工業の発展を阻む」ということから、当時の市長・高橋守雄が陸軍省や大蔵省など関係機関と交渉を重ねた上、渡鹿への移転を実現させた。  これら「近代熊本市の三大事業」は、第7代熊本市長・高橋守雄の時代に実現したものであり、その功績を称え、熊本城の近くには「高橋公園」が整備されている。

(熊本市上水道発祥の地・八景水谷)

(熊本市電)

(高橋公園)

(第7代熊本市長・高橋守雄の像)

【桜町地区再開発事業=現在】  明治の「軍都・熊本」時代に、市の中心部で大きな敷地を占有していた陸軍第六師団の施設「山崎練兵場」の跡地の一角「桜町地区」では、現在、巨大な再開発事業が進められている。本再開発事業は、九州を代表する周遊と交流の複合拠点を実現することにより「わくわくに出会う熊本新城下町」として魅力ある空間を形成することを目標に、商業施設、バスターミナル、公益施設(ホール)、ホテル、住宅、バンケット、シネマコンプレックスなど、多様な用途が一体となった複合施設を整備するもので、平成31年(2019年)夏のオープンを目標に鋭意工事が進められている。 す。

 桜町・花畑周辺地区のまちづくり(熊本市ホームページ)↓ http://www.city.kumamoto.jp/hpKiji/pub/detail.aspx?c_id=5&id=5046&class_set_id=2&class_id=62

 桜町地区再開発事業(九州産交グループホームぺージ)↓ http://www.kyusanko.co.jp/landmark/tenant/

(工事が進む桜町地区再開発事業)

(今回の舞台)

(2017年08月13日)

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