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二重峠を越える(延喜式官道→豊後街道→ミルクロード→二重峠トンネル)

★二重峠ルートは古代・中世・近世を通じて、政治、経済、文化、軍事上の重要なルートであった。近代(明治時代)に入ってその機能は、立野火口瀬を抜けるルート(現国道57号)に取って代わられたが、熊本地震が過去の履歴を蘇らせた。

 肥後の東西交通路は、延喜式(平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則))の官道時代から「二重峠」を通っていた。この時代、都(朝廷)から地方への法令の伝達のため、駅家(うまや)を一定間隔で配置し、馬を乗り継いで行かせる方法をとっていた。九州(西海道)の場合、大宰府が道路網の中心でもあり、肥後国には、大水(おおむつ)、江田、二重、蚊藁(かわら)、高原、蚕養(こかい)、球磨、長崎、豊向(とよむく)、高屋、片野、朽網(くたみ)、佐敷、水俣、仁王という15の駅があった。

二重峠を越えるルート(後の豊後街道)は、古代・中世を通じて瀬戸内海畿内文化と有明文化をつなぐ重要な政治、経済、文化、軍事上のルートであったが、肥後国は国人割拠状態が続いたこともあり、広域的な交通路整備は行なわれなかった。そして、この状態に終止符を打ったのが加藤清正公。  肥後熊本藩(加藤家)は五十四万石の大藩で、その領地の大部分は肥後国にあったが、豊後(大分県)の久住から鶴崎(大分市内)の港まで細長い地域に二万三千石を領していた。日本海・東シナ海側から太平洋側まで連なる全国でも例のない領地を有していたのである。  このような飛び地を確保したのは、豊臣家の忠臣・清正公が有事に大阪方面へ駆けつけるためと伝えられている。この熊本~鶴崎を結ぶ街道が「豊後街道」で、清正公が拓き、政治、経済、軍事の重要なルートとして整備された。  豊後街道は、札の辻(熊本市)を起点として、菊地郡大津町、阿蘇市の二重峠を越え、内牧を経て大分の久住、豊後鶴崎に至る全長約124km(31里)の街道で、途中、二重峠、滝室坂、大利・境の松の山越えと難所が幾つもあったが、清正公はこの街道の整備に力を注ぎ、特に城下から大津までは幅二十間の一大杉並木街道を造り上げ、厳しいお触れを出して樹木を保護した。この大津街道は熊本城や大河川工事と共に清正公の構想の雄大さを今日に伝えるものとなっている。  江戸時代になると、この街道は細川藩が参勤交代路として活用。そのため、二年に一度は大名行列が通ることになり、各地に宿場が誕生した。

(札の辻・里程元標跡)

(三里木跡)

(大津街道杉並木)

(大津街道杉並木)

「二重峠(標高683m)」は大津町から阿蘇市に向かう途中の阿蘇北外輪を越える峠。北外輪山の西側の最も低い地点で、名の由来は阿蘇神話、健磐龍命(たけいわたつのみこと)が外輪山を蹴破ろうとしても、二重になっているから破れなかったという話からきている。 阿蘇地方の農民たちは大津にある熊本藩の米蔵に年貢米を運ぶために二重峠を越えなければならなかったが、二重峠から坂下までの道はけわしく、また火山灰土であるために雨が降るたびに道路が痛んだといわれ、そのために九十九折れの急坂の道には石畳が敷きつめられた(石畳は長さ2km、幅4m、水きり、水ぬきなどが工夫されている)。

 街道歩きの旅・豊後街道(坂下~二重峠~肥後大津)↓ http://kaidoaruki.com/area_kyusyu/bungo/bungo03.html

(二重峠)

(二重峠の石畳)

 時は流れ、近代。明治17年(1884)に比丘尼谷の難工事がクリアされ、立野火口瀬を抜け熊本から阿蘇に至る新道(現在の国道57号)が開通。以来、二重峠を越えるルートの交通上の重要性は薄れることとなった。  ちなみに(阿蘇神話に戻るが)、二重峠を蹴破れなかった健磐龍命は、次に別の場所を蹴ると見事に成功。外輪山に穴が開いて湖水の水が流れ出し、外輪山の内側には作物ができる平野が生まれた。この蹴破られた箇所が立野火口瀬。立野(たての)の地名は、蹴った時に力余って尻餅をついた命が、「もう立てぬ」と言われたことによる、と伝えられている。

 さらに時は流れ、現代。平成28年(2016年)4月に発生した熊本地震は、再度、二重峠ルートの重要性を顕在化させた。  熊本地震では、熊本県の東西方向の生命線ともいうべき国道57号が南阿蘇村立野地点で斜面崩壊により寸断、これと接続する国道325号阿蘇大橋も崩落、さらに県道熊本高森線の俵山トンネルとそれにつながる橋梁群も損傷し、2~3万台/日を超える熊本~阿蘇間の重交通が機能麻痺の状態となった。

(阿蘇大橋地区の被災状況)

 広域の迂回路の啓開がすぐさま行なわれ、ゴールデン・ウイーク前に応急復旧・交通解放された。その広域迂回路の主力が通称「ミルクロード」。二重峠を通るルートだ。今では、2万台/日の交通量を担っている。 国土交通省と熊本県では、ミルクロード等(県道北外輪山大津線~県道菊池赤水線)の渋滞対策・冬期交通対策強化のため、様々な施設整備を実施するとともに、「除雪優先区間」に設定し、重点監視・集中除雪を行うこととしている。  また、これと並行して、国道57号の本復旧(直轄砂防事業、北側復旧ルートを含む)、阿蘇大橋の架け替え、俵山ルートの本復旧が全力で進められている。なお、国道57号北側復旧ルートは、二重峠(外輪山)の下を約4kmのトンネルで通過する計画となっている。時代の変遷、技術革新の積み重ねがそこにはある。

 ミルクロード強化対策の実施状況(熊本河川国道事務所HP)↓ http://www.qsr.mlit.go.jp/kumamoto/fukkyuu/milk/161221/161221_milk.html

 熊本地震・道路復旧状況(熊本河川国道事務所HP)↓ http://www.qsr.mlit.go.jp/kumamoto/fukkyuu.html

(ミルクロード経由で「二重峠」を越える)

(左折レーンを設置した二重峠交差点)

(今回の舞台)

【追補】  1月6日(金)の熊本日日新聞(朝刊)の「読者ひろば」の欄に、『阿蘇への道路もっと便利に』という熊本市在住の36歳女性会社員の方からの投稿記事が掲載されていました。  「地震後から頻繁に話題になっている阿蘇周辺の道路状況。私は熊本市内から阿蘇市ヘ通勤しています。地震後は、ミルクロードや二重峠が頻繁に渋滞して本当に困っていました。どうしても朝は息子をこども園に送ってからの出動となるので、時間をずらすことができません。遅刻もしょっちゅうしてしまい、会社にも職場の方々にも迷惑をかけ続け、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいでした。また、帰りも渋滞で家に着くのが遅くなり、子どもにも旦那にも不便な思いをさせてしまいました。しかし、夏ごろからでしようか。ミルクロードの各所で工事が始まり、トイレの設置や道路の拡幅、また、事故を多発させていた車道治いの側溝ふたの設置など、とても速いスピードで改普がされてきました。12月に入ると、ついに渋滞を引き起こす原因となっていた二重峠のミルクロードの交差点の一時停止がなくなり、左折専用レーンが誕生。渋滞する日も少なくなり、早く帰宅できる日が増えました。早く帰宅できてうれしいのは、やはり3歳の息子と一緒に過ごす時聞が増えたことです。一緒にお風呂に入ったり、おもちゃで遊んだり・・・夕食も少し手の込んだものを作ることができるようになりました。12月24日からは俵山ルートも通行可能になりました。ますます阿蘇へのアクセスが良くなることを期待しています。」  手間を惜しまず投稿していただいた方に、またその声を掲載していただいた地元新聞社に、素直に感謝申しあげたいと思います。

(2017年1月8日)

【追補2】  二重峠交差点の左折レーン設置効果(整備1ヶ月後の交通状況)は次の通りです。

 ◆阿蘇市→大津町方向(赤水ミルクロード入口交差点~二重峠交差点間)  ・最大滞留延長:整備前 約3,400m ⇒ 整備後 約50m(9割以上減少)  ・最大所要時間:整備前 約28分 ⇒ 整備後 約14分(約5割短縮)  ・所要時間分布:整備後、約9割が10分未満に改善

(2017年2月6日)

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