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菊池川を治める(加藤清正公の川づくり➂)

★清正公は、国際貿易港「高瀬」の治水と有明海沿岸の農業生産力の向上を意図して、菊池川の改修工事に取りかかった。

 県北の菊鹿盆地や玉名平野の穀倉地帯を豊かに潤して流れる菊池川は、古くから舟運も盛んで、古墳時代には、近畿地方や大陸との交流の跡が見られ、平安末期に開かれた高瀬港は、国際貿易港として、江戸時代以降は肥後米最大の輸出港として栄えた。  しかし、加藤清正公が肥後に入国する前の菊池川は、治水工事などはまったく放置され、洪水も度々発生していた。しかも、下流一帯は直接有明海につながっていたため、満潮時には海と化し、出水時には高瀬一帯までも水浸しとなって港としての機能も滞るという状況であった。清正公は、高瀬の治水と有明海沿岸の農業生産力の向上を意図して、白川・緑川の治水事業に先んじて、菊池川の改修工事に取りかかった。この時代、高瀬(=太閤秀吉直轄領)には国際的にも知られた港の貿易権があり、かつ高瀬周辺にはおよそ3万石と推定される高い農業生産力があった。

【菊池川における清正公の治水・利水事業/九州農政局の過去のホームページに掲載】

 「(肥後)入国後、清正は早速領地内の視察を行っています。その視察で目をつけたのが、高瀬と横島山に挟まれた地域です。横島山は、その当時は島で高瀬から見たときに横に細長く伸びて見えたことから「横島」という名前が付けられました。地域概要でも述べましたが、現在の菊池川はもともとは支流にあたり、本流は高瀬付近から伊倉の西を通り唐人川から有明海へと注いでいました。なお、唐人川の名前の由来は、昔からこの川を行き来して中国との貿易が盛んに行われていたことから名付けられたと言われています。当時この地域は、高瀬より南に広大な三角州が形成されていたため、もし、菊池川を現在の流路に付け替え、潮受け堤防を築くことができれば、そこに広大な領地が造成できると、清正は考えたのです。

 肥後国入国の翌年の天正17(1589)年には工事に着手し、まず、最初に取り掛かったのが、菊池川の水を高瀬から大浜方面に変更する大工事です。新菊池川の新しい流路となる場所を掘削し、掘削した両岸に堤防を築造し、そして、千田川原(せんだがわら)のあたりで川を締め切り、新水路へと水を流し、現在の菊池川の流れへの変更を突貫工事でわずか3年で行いました。

 次に、潮受け堤防の築造に取り掛かります。三角州を包囲するように、千田川原から横島丘陵の東を結ぶ東塘(ひがしども)と、大浜と横島丘陵を結ぶ西塘(にしども)が築かれ、広大な土地が誕生しました。

 塘(とも)は、「つつみ」とも読み、つつみ(堤)つまり堤防を意味します。

 最後に完成したのが、石で作る堤防の石塘(いしども)の築造です。石塘は、横島丘陵と久島山を結ぶ潮受け堤防で、長さは380mほどです。しかし、このあたりは、急潮激流のいわば海峡のようなところで、菊池川の工事と同じく天正17(1589)年に着手した工事は難航を極めました。造っては壊れを繰り返し、ついには、人柱を立ててようやく工事を完了させたとの逸話まで残しています。清正がその知恵を結集して行った世紀の大工事は、17年の歳月が経過した慶長10(1605)年にようやく完成を迎え、小田牟田新地として、あらたに約880町歩(町歩とは現在の面積の単位ha(ヘクタール)に相当)の土地が造られました。」


 上記のほか、清正公は、新・菊池川(現在の菊池川)の所々に轡塘(くつわども:遊水地)を築くとともに、蛇行するところには数多くの石刎(いしはね:水の勢いを和らげる)を設け、洪水被害を軽減させる治水上の工夫も行っている。


なお、有明海の干拓事業は、清正公による小田牟田新地の開拓に始まり、その後、加藤氏から細川氏へと引き継がれ、江戸、明治、大正と続き、昭和42年(1967)に潮止めを行ったのを最後に、現在にいたっている。

(横島の石塘・新内井樋)

(横島の石塘・六枚井樋)

(横島の石塘と人柱の跡の説明書き)

(横島の石塘の隣に鎮座する加藤神社)

(菊池川に残る石刎)

(今回の舞台)

(2016年10月29日)

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