宇土市網田駅周辺散策(郷土とインフラの歴史を巡る)
★開拓神「健磐龍命」が祀られている網田神社、島原大変・肥後迷惑を後世に伝える「寛政の津波供養碑」、加悦儀三郎の功績「上網田町干拓地」、JR三角線と網田駅、国道57号と道の駅「宇土マリーナ」、そして国道57号網田地区交差点改良など、宇土市網田駅周辺には、郷土とインフラを巡る物語が沢山ある。
【景行天皇ゆかりの御輿来海岸】 熊本県の中央部に位置する宇土(うと)半島は、北は有明海、南は八代海に面し、古くから肥後国の海の玄関口として、その役割を果たしてきた。このうち、半島北岸に位置する網田海岸一帯(宇土市赤瀬町・下網田町)は、砂岩と泥岩の岩相が交互に洗濯板状となる岩盤と遠浅の海浜にできる三日月型の砂紋(砂干潟)が特徴で、「日本の渚百選」・「日本の夕日百選」にも選定される景勝地となっている。 この網田海岸は別名「御輿来(おこしき)海岸」として名を馳せているが、これは古代、景行天皇が熊襲(くまそ/南九州地域の族名)を平定したその帰り道、美しい海岸線が天皇の目に留まり、しばし御輿を駐め見入られたという伝説からその名が付けられたとされている。
御輿来海岸の干潟に夕日が映える!(熊本県観光サイトなごみ紀行)↓ https://kumanago.jp/topics/?mode=detail&id=1064
(御輿来海岸の砂紋:2018年4月21日夕刻)
(御輿来海岸の砂紋:2018年4月21日夕刻)
(御輿来海岸)
(景行天皇聖蹟記念碑)
【開拓神「健磐龍命」が祀られている網田神社】 国道57号を車で三角方面に走ると、JR三角線網田駅の左手に盆地状の農地が広がっている。これが「網田平野」で、この地に暮らす人々は、古くから農業を生業としてきた。そして、住民たちが毎年、豊作を祈願したのが「網田神社」である。 網田神社は、健磐龍命(たけいわたつのみこと)を主祭神とする阿蘇神社の末社で、第76代近衛天皇の天養元年(1144年)に菊池経直と宇治友孝(阿蘇大宮司)の協議により、下網田の木藤三に社殿を建立し(後に現在地に遷宮された)、附近一帯の田畑を社領としたとある。 そして、境内にある由緒板には、「健磐龍命は未開発の荒野を開墾、美田を作り農耕の道を教へ給ひ民政に御心を注がせ給ひし神なり。産業振興のみならず吾々人間生活に関する交通、文化、学芸結婚医薬厄除等生活守護の神として限りなき御神心を蒙り給ふものなり。」と、その御神徳が記されている。 先人達の郷土への働きかけの歴史がここにもある。そして、それは神話となって現代に語り継がれている。
(網田神社)
(網田神社由緒板)
【島原大変・肥後迷惑を後世に伝える「寛政の津波供養碑」】 今から225年前(寛政四年四月一日、西暦1792年5月21日)、雲仙普賢岳の火山活動により前山(眉山)が崩壊し、それにより引き起こされた大津波は両肥(肥前・肥後)の有明海沿岸の村々を襲った。のちに「島原大変肥後迷惑」として、日本の火山災害の歴史において最大の死者を出した(およそ1万5000人が亡くなった)大災害として記憶されてきた事象である。熊本県の災害碑(供養塔や記念碑)のなかで、同一の災害による碑の建立数が群を抜いて多いのがこの津波災害である。 『寛政四年四月朔日高波記』によると、宇土郡の合計死者数は1,266人と記録されており、ここ網田地域でも、大きな被害があったことがわかる。 「寛政の津波供養碑」(宇土市戸口町)は、被害の大きかった玉名郡、飽託郡、宇土郡の3ヶ所に同種の供養碑(塔)が造立されたことにより、別名「一郡一基の供養碑(塔)」とも呼ばれている。
(寛政の津波供養碑)
【加悦儀三郎の功績「上網田町干拓地」】 国道57号を車で三角方面に走ると、網田中学校のある小高い山(島山)の手前右手に堤防に囲まれた農地が広がっている。これが上網田町干拓地(新地地区)で、江戸時代末期、網田村の庄屋であった嘉悦儀三郎(かえつぎさぶろう)が山がちで田畑の少ない村の農民の為に私財をなげうって有明海の干拓事業を行い、1863年に完成したものである。途中、堤防は何度も台風や大雨で壊されるという不幸に見舞われたが、そのたびに苦労して懸命に修復されたとも記録されている。 現在、新地地区の竜王社境内には、加悦儀三郎翁の記念碑が建っており、干拓地の安全を見守っている。
干拓にささげた一生(宇土市デジタルミュージアム)↓ http://www.city.uto.kumamoto.jp/museum/06kamisibai/01kantaku.html
(上網田町にある干拓地)
(竜王社)
(嘉悦儀三郎翁頌徳碑)
【JR三角線と網田駅】 JR九州三角線は、宇土駅から三角駅に至る全長28.2kmの鉄道路線で、近年は、観光列車が通る観光ルートとしても脚光を浴びている。 熊本における鉄道論の初見は、明治十六年(1883年)三月の熊本県令富岡敬明による三角築港の付帯工事として持ちあがった「熊本~三角間」の鉄道敷設計画であった。その後、この計画は一時頓挫するのであるが、福岡・佐賀・熊本の各県令の民間への働きかけによって設立された「九州鉄道」が「門司~熊本~三角」を中心とした路線建設を計画したことで実現可能となり、三角線(宇土~三角間)は、明治三十二年(1899年)十二月に開通の運びとなった。 現在も利用されている「網田駅舎」は、明治三十二年(1899年)開業時のもので、熊本県内で最も古い木造駅舎である。駅舎は、木造平屋の寄棟造の本舎に、切妻造の事務所・休憩室・下屋を配した待合室がそれぞれ東西に接続する構造で、北側の出入口・南側の改札口は下屋に覆われて利用客を雨から守るような造りになっている。 なお、平成25年10月から駅舎の一部は駅カフェ「網田レトロ館」として生まれ変わり、地元のまちおこしグループ「NPO法人網田倶楽部」の管理運営によって、地域の人々や観光客が集う場として再生(営業)されている。地元・網田産の食材を使ったメニューも好評だ。
特急A列車で行こう(JR九州)↓ http://www.jrkyushu.co.jp/trains/atrain/
三角築港の計画と整備(土木史研究論文集)↓ http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00044/2004/23-0095.pdf#search=%27%E4%B8%89%E8%A7%92%E7%B7%9A+%E5%AF%8C%E5%B2%A1%E7%B8%A3%E4%BB%A4%27
駅カフェ*レトロ館(宇土市)↓ http://www.city.uto.kumamoto.jp/q/aview/329/10211.html
(御輿来海岸に沿って走る特急「A列車で行こう」)
(JR三角線・網田駅)
(JR三角線・網田駅)
(駅カフェ「網田レトロ館」)
【国道57号と道の駅「宇土マリーナ」】 宇土半島の北側・有明海沿岸に沿って走る国道57号は、県都・熊本と天草地域を結ぶ主要幹線道路として、また三角港からフェリーで島原港まで渡ることで、九州(大分~阿蘇~熊本~雲仙~長崎)を横断する風光明媚な観光ルートとしても大きな役割を果たしている。 ちなみに、国道57号の前身となる熊本~三角間の道路整備は、鉄道(三角線)の整備に先立ち、明治17年3月に工事着手してから僅か2年余りで完成し、同19年8月1日には一般の通行に供されている。当時、この道路整備は、三角築港工事を上回る大工事であったようで、現在の一般国道 57号は、基本的にはこの時の道路が改良されたものである。 道の駅「宇土マリーナ」は、この国道57号ルート上において、日本の渚百選・日本の夕日百選「御輿来海岸」に隣接した雲仙普賢岳を眺望できる風光明媚なところにあり、絶好の休憩スポットとなっている。また、マリーナ内の道の駅として、クルージングの体験試乗ができ、グループ、家族で1日中楽しむこともできることも特徴だ。
宇土マリーナおこしき館: 道の駅(公式ホームページ)↓ http://okoshikikan.net/
道の駅 宇土マリーナ(九州地方整備局)↓ http://www.qsr.mlit.go.jp/n-michi/michi_no_eki/kobetu/uto/uto.html
道の駅宇土マリーナ(宇土市)↓ http://www.city.uto.kumamoto.jp/utomonogatari/q/aview/10/580.html http://www.city.uto.kumamoto.jp/utomonogatari/q/aview/10/581.html
(御輿来海岸に沿って走る「国道57号」)
(道の駅「宇土マリーナ」)
【国道57号網田地区交差点改良】 主要幹線道路として多くの交通量(12,000~2,3000/日)を担っている国道57号(宇土~三角間)であるが、安全で円滑な交通の流れが阻害されてしまう(リスクを有する)箇所が途中に何カ所もある。例えば、国道57号が有明海沿岸沿いを走るルートであるため、荒天の際、越波が発生したり、また、切り立った斜面からの土砂崩落や落石が発生することで、通行止めを余儀なくされる箇所などだ。 宇土市網田地区にある中川橋交差点(新・網田中学校交差点)も、大きなリスクを抱えていた箇所の一つであった。この交差点付近は、国道57号・網田川・JR三角線の三つが近接(並行)している区間で、網田川を渡る橋梁(中川橋)の高さ(縦断)が国道57号より最大1.5m高いことから、その交差点形状は複雑で、交通安全上大きな課題を抱えていた。 また、梅雨や台風による大雨が降った場合、網田川が洪水で溢れ、国道57号が冠水してしまうことも度々あり、この場合、熊本~天草間の幹線交通か途絶してしまう(天草地域が孤立してしまう)被害も発生していた。 今般、網田地区の方々からの要望を踏まえ、平成29年度に交差点改良事業を実施したことにより、国道57号に出入りする網田地区の交通が安全に通行できるようになると共に、国道57号本線が嵩上げされたことで、大雨で交差点付近が冠水してしまうリスクも低減することとなった。 工事が完成して、網田地区では、工事完成祝&交通安全祈願祭が執り行なわれた。宇土市Facebookには、その様子が「網田地区の長年の懸案事項であった、中川橋交差点改良工事の完成を祝い、交通安全祈願祭がありました。これは、網田地区振興会が開いたもので、宇土市長をはじめ地元県議会議員や市議会議員、嘱託員など27人が出席しました。 主催者の益田信明振興会長は「この工事は網田地区の念願でした。網田地区への出入りが大変便利になりました。網田地区住民一同、みな感謝しております」と述べました。」と報告されている。
式典を終え、その足で御礼にお来しいただいた網田地区の方々と懇談させていただき、とても幸せになりました。
網田地区出入口交差点改良工事完成祝&交通安全祈願祭(宇土市Facebook)↓ https://www.facebook.com/utocity/posts/1652006571558839
(シンプルな交差点形状となった「網田中学校交差点」)
(国道57号が大雨で冠水してしまうリスクも低減した)
(工事完成後、御礼にお来しいただいた網田地区の方々と共に)
(今回の舞台)
(2018年5月13日)
関連ページ(熊本国土学) <第2回>農耕の道を教え、国土の開拓に尽くされた肥後の一の宮「阿蘇神社」(2016/03/27)