top of page

三河地方に残る鎌倉街道の面影<三河国土学⑦>

★東部(豊橋市域)や西部(安城・知立・豊田・刈谷)など、三河国内には、鎌倉街道にまつわる史跡や街道の面影が残されている区間がいくつかあります。


鎌倉街道とは?

 過去のブログ(全3回)にて、近世(江戸時代)の東海道と三河地方にあった七つの宿場町(二川、吉田、御油、赤坂、藤川、岡崎、池鯉鮒)を紹介してきましたが、現地調査に出向いた際、この近世のルートとは異なる東海道ルートの存在を示唆するサイン(案内)が目に留まることがありました。それが『鎌倉街道』です。



 鎌倉街道とは、源頼朝が鎌倉に幕府を開いて以降、鎌倉と各地とを結んだ主要な街道のこと(総称)で、鎌倉から京都に向かうルートは、一般的に「東海道」と呼ばれたり、また「京・鎌倉往還」と呼ばれることもあります。

 三河地方内の鎌倉街道のルートは、一部の区間を除き、江戸時代の東海道ルート(=現在の一般国道1号に概ね沿ったルート)から大きく外れることのない範囲で、丘陵や山の尾根、丘陵の縁をつなぐコース取りになっていたと考えられていますが、数世紀にわたる時間の流れの中で、現在、その痕跡を確認することは困難となっています。


 時を旅する 愛知の街道|愛知県


豊橋市域に残る鎌倉街道の痕跡

 こうした中、三河地方には、現在でも鎌倉街道に関連する史跡やその面影が残されている区間が幾つかあります。一つは、豊橋市内(三河国東部)の鎌倉街道ルートです。

 江戸時代の東海道は、豊橋市内から豊川市内にかけて「二川~吉田(今橋)~御油~赤坂」の各宿場を経由するルート(今橋で豊川を渡河するルート)でしたが、全国を平定した源頼朝が1190年(建久元年)に上洛する際に通ったルートは、普門寺(豊橋市雲谷町)から、弓張山地を越えて同市多米町に至り、鞍掛神社、赤岩寺前を過ぎ、乗小路峠を越え、石巻和田を通り、豊川市当古町で豊川を渡河するルートだったと伝えられています。このルートが、江戸時代の東海道と区別する旧道の意味で、後年「鎌倉街道」と呼ばれるようになりました(この区間の鎌倉街道ルートについては、諸説あるようです)。

 ちなみに、江戸時代の東海道と鎌倉街道ルートとの最大の相違点(ポイント)は、「豊川をどの位置で渡河するか?」ですが、渡河地点に変更があった背景には、以下のような経緯があったと考えられています。

(1)三河国内には、古代官道の「東海道」が整備されていたが、そのルートは、鳥捕(ととり、現在の岡崎市宇頭町/矢作町)、山綱(やまつな、現在の岡崎市山綱町)、渡津(わたむつ、現在の豊川市小坂井町)という3箇所の駅家を経由して、豊川(当時は飽海川あくみがわ)の河口部「志香須賀(しかすが)の渡」を舟で横断するコースをとっていた。(参考:古代「三河国」インフラ考<穂の国「東三河」②>

(2)平安時代後期から鎌倉時代初期の地殻や気候変化による海進現象のため、鎌倉時代初期の東海道(鎌倉街道)のルートは、豊川河口部での渡河が不可能となり、より安全な中流部(豊川市当古付近)で渡河し、弓張山地を越える内陸部ルートに変更された。

(3)しかし、このルートも1221年(承久3年)の「承久の乱」頃以降は、河口部の砂州が発達して陸地化したこと、残った本流は川幅が狭くなったので今橋が架けられ、渡津の今道ができたことなどを理由として、河口部のルート(赤坂から渡津を経て今橋を渡るコース)となった。


 鎌倉街道と豊川の渡し/とよはしアーカイブ|豊橋市


 普門寺


 多米の史跡と伝承|豊橋市多米校区自治会



普門寺(豊橋市雲谷町)

※奈良時代に行基によって開山されたと云われ、現在は「豊橋のもみじ寺」としても知られている。1534年(天文3年)成立の『普門寺縁起』には、源頼朝が平家追討の祈祷をして、自身と等身大の不動明王像をつくったとの記述があり、また『吾妻鏡』には、全国を平定した源頼朝が1190年(建久元年)に上洛する際、雲谷普門寺(うのやふもんじ)に立ち寄り三日間滞在したとの記述が残されている。


鞍掛神社と駒止の桜の碑(豊橋市岩崎町)

※鞍掛神社の名は、全国を平定した源頼朝が上洛途中にこの神社を通り、馬の鞍を奉納して武運を祈願したことに由来し、神社の前の道が「鎌倉街道」であったと伝えられている。また、神社近くには、頼朝が軍馬を止めて休んだといわれる駒止の桜の碑も残されている。


安城・知立・豊田・刈谷・豊明市域に残る鎌倉街道の痕跡

 もう一つの鎌倉街道の痕跡は、三河国西部から尾張国に入る区間において、近世の東海道よりもやや北側を通るルート上に残されています。具体的には、安城市尾崎町(熊野神社)、同里町(不乗森神社)、知立市八橋町(根上りの松)、豊田市駒場町、刈谷市東境町(祖母神社)、同西境町を通って境川を越え、尾張国に入った後は二村山(豊明市沓掛町)の山中を通り抜けていく・・・というルートが鎌倉街道であったようです。現在は度重なる耕地整理や宅地開発などによって、その姿を見ることはできませんが、祖母神社や二村山には、比較的良好な鎌倉街道の面影が残されています。


 熊野神社|安城生涯学習まちづくり企画人


 不乗森神社


 鎌倉街道及び花の瀧伝承地|安城市


 根上りの松 | 西三河ぐるっとナビ(西三河広域観光推進協議会)


 鎌倉街道伝承地の碑 | 西三河ぐるっとナビ(西三河広域観光推進協議会)


 刈谷を通る 鎌倉街道・東海道|みかわこまち(愛知県三河地方の情報サイト)


 二村山鎌倉街道|豊明市



旧東海道尾崎一里塚跡と熊野神社(安城市尾崎町)

※熊野神社の前の街道沿いにある「旧東海道一里塚跡」の石碑と「鎌倉街道跡」の説明板(安城市教育委員会)。


根上りの松と「鎌倉街道之跡」碑(知立市八橋町)

※根が2メートルほど持ち上がっていることから名付けられ、鎌倉街道の傍らに往時の賑わいを偲ぶように立っている。松の根元に「鎌倉街道之跡」の碑があり、碑陰には、阿仏尼の「十六夜日記」の一節が刻まれている。


業平塚と業平供養塔(知立市八橋町)


駒場小学校前の「鎌倉街道伝承地」説明板(豊田市駒場町)


祖母神社にある「鎌倉街道伝承地」碑と街道の面影(刈谷市東境町)


源頼朝歌碑(豊明市沓掛町)

※標高71.8mの二村山は歌枕として詠まれた景勝地で、古来より街道を行き交う人々を魅了し、源頼朝をはじめ、北条泰時、西行などすぐれた歌人の詠んだ和歌が数多く残されている。


二村山鎌倉街道(豊明市沓掛町)

※二村山の山頂近くにある地蔵堂の北西から濁池に向かって下る山道は、比較的良く往時の鎌倉街道の面影を残している。


豊川~岡崎市域の間、鎌倉街道はどこを通っていた?

 これまでのところで取り上げてきた区間(東三河の豊橋市域、西三河の安城・知立・豊田・刈谷市域)を除く豊川~岡崎市域の鎌倉街道のルートについては、参考となるサイトを以下に紹介させていただきます。


 三河国鎌倉街道(国府から岡崎まで)|更級日記紀行


(今回の舞台)


(2023年10月22日)

最新記事
アーカイブ
​カテゴリー
​熊本国土学 記事一覧
bottom of page