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路面電車の走る街「熊本」

★熊本市近代化の基礎を築いた第7代熊本市長・高橋守雄市政下にあって、大正13年に最初の区間が開通した熊本市電は、政令都市「熊本」の更なる発展のために欠くこと出来ない交通インフラとなっている。

 日本で最初に登場した路面電車は、明治28年(1895年)に営業を開始した京都電気鉄道(後の京都市電)で、その後、路面電車は全国各都市で開通し、最盛期には67都市、路線総延長約1,500Kmにも達したと言われている。  しかし、高度成長期以降、モータリゼーションの発達(マイカーの普及)により、路面電車は各地で廃止に追い込まれることとなり、現在運行しているのは全国で19都市、九州では、長崎、鹿児島、そして熊本の3都市だけとなっている。

 ルートナビ(路面電車情報サイト)↓ http://www.homemate-research-streetcar.com/

 熊本市内の交通手段として「軌道」が最初に導入されたのは「熊本軽便鉄道(けいべんてつどう)」である。軽便鉄道とは、一般的な鉄道よりも規格が簡便で、安価に建設された鉄道を指し、熊本では、明治39年(1906年)10月に、熊本軽便鉄道株式会社が設立し、翌明治40年(1907年)12月20日には最初の区間(安已橋~水前寺間)が開業した。その後、明治44年(1911年)の全線開通時時点で、上熊本~大津間(大津線)、安已橋~水前寺間(水前寺線)あわせて23.8kmが運行していたが、蒸気機関車が小型客車1両を牽引するという輸送形態であったため、輸送力が低く、また市街地内で黒煙を出すことから市民からも不評であった。  この軌道路線(熊本軽便鉄道、後に大日本軌道)が廃止されたのち、改めて市内交通として敷設されたのが熊本市電である。熊本市電導入の経緯は、大正6年(1917年)に「電車期成会」が発足、その5年後の大正11年(1922年)には、熊本市近代化の基礎を築いた第7代熊本市長・高橋守雄(在職、大正11年1月~同14年7月)市政下にあって「電車の市営化」が市議会で決定され、さらに大正13年8月1日には6.9km区間(熊本駅前~浄行寺町間4.7km及び水道町~水前寺間2.2km)が開通した。開通当時、市民の喜びようは大変なもので、花電車まで走らせ全市をあげて祝ったとある。なお、市電の開通は、上水道事業の整備、歩兵第23連隊の移転の完了とあわせて「熊本市三大事業(大正の三大事業)」と呼ばれている。

 【熊本市電導入の経緯(大正~戦中まで)】   大正 6年10月18日  電車期成会発足   大正10年11月16日 熊本電車株式会社創立総会   大正11年 7月31日  電車市営化を議会で決定   大正13年 8月 1日  幹線(熊本駅前~浄行寺町4.7km)、水前寺線(水道町~水前寺2.2km)開通   大正14年 3月20日  水前寺線(水前寺駅前~水前寺600m)複線化   大正15年 3月26日  水前寺線(水前寺ガード下)複線化   昭和 3年12月26日  黒髪線(浄行寺町~子飼橋0.5km)開通   昭和 4年 6月20日  春竹線(辛島町~春竹駅前1.7km)開通                 上熊本線(辛島町~段山町1.4km)開通   昭和10年 3月24日  上熊本線(段山町~上熊本駅前1.3km)開通   昭和20年 5月 6日   健軍線(水前寺~健軍町3.3km)開通(単線)

熊本の戦後文学を代表する作家、福島次郎(1930~2006年)の長編小説『現車 後篇』(論創社)では、著者の一族の歩み(玉名郡から熊本城下町へ出て小旅館の主になった祖父の鶴松。そのひとり娘に生まれ、ばくちの胴元として財をなし、性悪な男たちと縁が切れない母・民江を中心とした物語)とともに、明治~昭和の熊本の変遷、熊本大空襲や白川大水害などの出来事が鮮やかに描かれているが、熊本市内への軌道系公共交通機関(軽便や市電)の導入については次のように紹介されている。当時、市内の交通を支えていた人力車と車夫に大きな影響があったことがわかる。

「大正時代のはじめは、まだ新市街の北側の一帯の二十三聯隊跡は、草もまばらな空漠とした原っぱであった。  唯、南側の方は、無声映画をかけたいくつかの小屋がならび、娯楽街としての軒並をつらねていた。  この通りを、花岡山の下から桜町を通って来た「軽便」が、先きのでっぱった煙突から黒い煙りを吐いて、ポーポーポーと警笛ものどかに市民をのせて走っていた。機械油で光った浅黄色の服を着た機関手が運転してゆく車は、今から思えば、おもちゃのようで、人が走るよりは少しは早い位のものだった。  この「軽便鉄道」以外に、市民の足と云ったら、やはり人力車だった。 (中略)  熊本市にはじめて電車が開通する事になるのは、大正十三年の夏である。これは、人力車夫に致命的な打撃を与えた。市に千五百人の車夫がいたが、彼等の殆どは、廃業同然の憂目を見る事が明らかだった。生業をおびやかされる事になった彼等は、団結して、市へ自分らの死活問題を陳情した。電車開通は時代の流れで仕方がない。  押し止める事は不可能なので、これを潮時に車夫をやめて他の職業へ移るための資金を要求したわけである。  これが一時難行したので、車夫は総員一挙に、市役所を取りまいた。続いて、九州日日新聞社や電気会社の前をデモストレイションしたのだった。  祖父は、すでに生活の道を他に見出していたあとなので、資金を要求する理由もなかったが、昔仲間に押されてその先頭に立った。仕舞ってあったハッピや江戸胸掛を着て、白いハチマキをし、例のむこう見ずで大暴れした。大勢の車夫連もめいめいの車に白い旗をゆわえつけ白いハチマキで、群がり走った。当時はまだ「赤い旗」など、むやみに世間の眼を刺激し、逆効果だったから、白いのにしたのであろう。  これが効を奏し、進んで車夫をやめる者には、多額の失業手当が市から与えられた。一日の労働賃が、わずか一円五十銭だった車夫連は、その金を受けとって喜び、中には白いハチマキをしたままそれへ時代劇映画の手裏剣のように新しい紙幣を立てならべ、屋台酒を飲みあるく姿もあった。」福島次郎著『現車(うつつぐるま)』より抜粋)

 熊本市電は、戦後も路線を延伸し、最盛期の昭和38年(1963年)には、路線長は25.0kmとなったが、昭和30年代後半以降は全国の傾向と同様、自動車交通の増加(マイカーの普及)などに伴う乗客数の減少により市電の経営が悪化し、路線の集約化が進んだ。現在は、幹線が10駅3.3km(熊本駅前~水道町間)、水前寺線7駅2.4km(水道町~水前寺公園間)、健軍線9駅3.0km(水前寺公園~健軍町間)、上熊本線10駅2.9km(辛島町~上熊本駅前間)、田崎線3駅0.6km(熊本駅前~田崎橋)の計5路線2系統(路線長12.2km)で熊本市電は運行されている。  また、近年は、お年寄りらが乗りやすい超低床車両「9700型」を全国に先駆けて導入したり(平成9年)、イルミネーション電車の運行開始(平成20年)、市役所前~水道町間の軌道緑化(平成23年)、交通系ICカード全国相互利用サービスへの加入(平成26年)、さらには豪華観光寝台列車「ななつ星in九州」などを手掛けた工業デザイナー・水戸岡鋭治氏がデザインした車両「COCORO」(2両編成)の運行開始など、利用者のサービス向上や市電の観光資源化・周辺環境づくりにも力が入れられている。その結果、熊本市電の利用者数は増加しており、2015年度は39年ぶりに利用者が1,100万人を超えた。

 熊本市交通局↓ http://www.kotsu-kumamoto.jp/

 昨年4月の熊本地震では、レール破損などの被害を受けたが、本震(4月16日)から3日後には運転を再開し、市民を元気づけた。また、熊本県出身のタレント・コロッケさんによる武田鉄矢さんや志村けんさんなどの“ものまねアナウンス”(電停案内)も人気を呼んだ。

 コロッケさんの市電車内アナウンスについて(熊本市)↓ https://www.city.kumamoto.jp/hpKiji/pub/detail.aspx?c_id=5&id=14086&class_set_id=3&class_id=535

 最近では、市電の延伸についても活発な議論がなされている(2017年6月16日、熊本市が「自衛隊ルート」を優先して整備する方針であると報じられた)。いずれにしても熊本市電は県都「熊本」を支える基幹交通手段の一つであり、政令都市「熊本」の更なる発展のためには欠くこと出来ない交通インフラである。

(0803AB「COCORO」)

(0802AB)

(0801AB)

(9703AB)

(熊本市電車両の数々)

(今回の舞台)

(2017年9月16日)

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