高森町の国土教育と南阿蘇鉄道(熊本地震から1年)
★熊本地震から1年が経ち、被災地は復旧から復興への歩みを始めている。しかし、高森町の道徳教育用郷土資料『高森の心』にも採録されている「南阿蘇鉄道」の全線復旧の目途は立っていない。学生やお年寄りなど交通弱者の足として生活を支えてきた、そして南阿蘇の観光を支えてきた「南阿蘇鉄道」の早期の全線復旧を強く願う。
5月27日、南阿蘇村の県野外劇場アスペクタで「阿蘇ロックフェスティバル」が開催された。熊本地震の被災地を音楽で励まそうと、歌手の泉谷しげるさんが呼び掛けた大イベントで、復興へのエールがこもった全力のパフォーマンスに、約1万人(主催者発表)の観客が熱狂した。
阿蘇ロックフェスティバル(ホームページ)↓ http://aso-rockfes.com/
ゴールデンウイーク期間中も阿蘇周辺地域は観光客で賑わった。好天に恵まれたこともあるが、熊本地震から1年が経ち、被災地は復旧から復興への歩みを始めている。 九州地方整備局がとりまとめた『熊本地震から1年後の交通状況』によると、国道57号などで一部通行不能となっているが、県道28号熊本高森線(俵山トンネルルート)の開通などにより、阿蘇地域(東西方向)の交通量は震災前の約8割まで戻り、ゴールデンウィーク期間中の交通量は震災直後だった昨年と比較すると今年は約1.5倍に増加、周辺の「道の駅」利用者数も震災前の約1.2倍になったとのこと。
『熊本地震から1年後の交通状況』(九州地方整備局)↓ http://www.qsr.mlit.go.jp/site_files/file/n-kisyahappyou/h29/1705230100.pdf
しかしながら、南郷谷を走る「南阿蘇鉄道」については、被災前の全線17.7kmに対し現在復旧している区間は約7km(中松駅~高森駅間)のみ。残り区間(立野駅~中松駅間)の復旧の目途は立っていない。 4月16日に公表された「南阿蘇鉄道の鉄道施設災害復旧調査に関する報告書」によると、斜面崩壊や軌道陥没といった被害が少なくとも40カ所以上あり、全線開通に必要な復旧費用は、全体で約65~70億円と試算。内訳は、被害が大きかった「第一白川橋梁」に40億円、「犀角山トンネル」・「戸下トンネル」に約20~25億円となっている。「第一白川橋梁」の復旧に要する工期は5年程度で、これは、架け替えが必要であるとともに、その前工程として、施工ヤードの整備等「犀角山トンネル」の工事(3年程度の工期を見込む)を先行して実施する必要があるためだ。
『南阿蘇鉄道の鉄道施設災害復旧調査に関する報告書の公表について』(国土交通省)↓ http://www.mlit.go.jp/report/press/tetsudo01_hh_000113.html
(南阿蘇鉄道/被災した第一白川橋梁)
(南阿蘇鉄道/犀角山トンネル坑口から見た第一白川橋梁)
そして、早期復旧に向けての最大の課題は「復旧予算の確保」。熊本県と南阿蘇村・高森町・山都町・西原村・大津町(株主の5町村)は、国交省の調査結果を踏まえ、4月末に「南阿蘇鉄道再生協議会」を設立し、復旧予算の確保に向けて本格的に動き出した。2017年5月21日の地元紙(熊本日日新聞)は『南阿蘇鉄道 全線復旧の取り組み加速を』という社説を組んで、早期の全線復旧に向けて関係者にエールを送った。 「熊本地震で大きな被害を受けた第三セクターの南阿蘇鉄道は、昨年7月末に高森駅-中松駅7・1キロ区間の運転を再開したが、中松駅-立野駅の10・6キロ区間は運転休止が続いている。 国土交通省が4月に公表した調査結果によると、斜面崩壊や軌道陥没といった被害が少なくとも40カ所以上あり、特に白川の約60メートル上を走る絶景ポイントの第一白川橋梁[きょうりょう]は「架け替えが避けられないほどの甚大な損傷」を受けていたことが判明。全線復旧までには最大で「5年程度かかる」との見通しだ。 南阿蘇鉄道は、阿蘇五岳と南外輪山に囲まれた南郷谷を東西に貫き、JR豊肥線につながる南阿蘇地域の大動脈だ。高校生中心の定期利用者は減少傾向だったとはいえ、地震前は年間延べ8万人近くが通学通勤の足として利用。大津町や熊本市に通う高校生らを早朝5時台から乗せて1日14~15往復していた。 現在は高森駅-中松駅の3~4往復にとどまり、高校生たちはバスでの遠距離通学を余儀なくされている。復旧が1年、2年と長引くほど、南郷谷の原風景の一つである南阿蘇鉄道の存在感が薄れ、経営を圧迫するのは必至。「子どもたちの心の中で古里のローカル線への愛着がなくなる」という同鉄道幹部の嘆きは切実だ。 このような状況で「5年程度」という工期は長い。国、県も含め安全を重視しながら工期を短縮する知恵を出し合い、早急に復旧工法を決めて着手してほしい。 約65億~70億円とされた復旧費用については、東日本大震災で被災した三陸鉄道(岩手県)と同様に地元負担が実質ゼロになるよう南阿蘇鉄道が国に支援を要望している。ただ、数%の負担は避けられそうにない。 国の支援を受けるために、線路などの鉄道施設を沿線の南阿蘇村や高森町など地元自治体の所有とする「上下分離」方式の導入も課題だ。導入すれば経営の安定化が一段と進む半面、鉄道施設の保守・管理を地元自治体が担っていくことになる。 県と株主の南阿蘇、高森、山都、西原、大津の5町村は、国交省の調査結果を踏まえ、4月末に「南阿蘇鉄道再生協議会」を設立した。復興基金を持つ県がメンバーに加わる意味は大きい。 総額523億円を積んだ復興基金は、ほぼ半分の使途がまだ決まっていない。今後、復旧費用の地元負担分や上下分離に伴う経費などについて協議する方針だが、復興基金の活用も選択肢の一つではないか。 JR豊肥線の復旧もにらみながら、早期の全線再開へスピード感を持って協議を進めてほしい。地震前は、トロッコ列車などが人気を集め、国内外の観光客の利用も順調に増えていた。全線復旧までの間、運行経費は今以上に増えることになるが部分運転区間を徐々に延ばし、その先をバスで代替するなど観光客を意識した取り組みも検討する価値はあるはずだ。」(以上、全文)
南阿蘇鉄道は、地域にとって欠くことの出来ない交通インフラだ。観光だけでなく、朝夕の通学・通勤や買い物、通院など地元の人の大切な足となっている。 南阿蘇鉄道(株)本社のある高森町では、道徳教育用郷土資料『高森の心』(熊本県高森町教育委員会 平成27年3月)において南阿蘇鉄道の歴史を取り上げ、鉄道開通までの苦労話を若い世代に伝えている。 【道徳教育用郷土資料『高森の心』(熊本県高森町教育委員会 平成27年3月)から】 『高森に鉄道を』 トロッコ列車「ゆうすげ号」が高森駅に入ってきました。 みんなにこにこ顔で、かいさつ口に向かいます。ゆうたとはるかもその人たちにまじっておりてきました。高森のおじいさんやおばあさんの家に遊びに来たのです。おじいさんたちがむかえに来ていて、にっこりと手をふりました。 ばんごはんを食べながら、みんなでトロッコ列車の話をしました。トロッコ列車は、戸下の鉄橋のまん中で列車を止めます。景色をお客さんに楽しんでもらうためです。ゆうたたちは、おそるおそる谷ぞこをのぞきこんだ話をしました。にこにこして聞いていたおじいさんは、はじめて鉄道が高森町にやって来た時のことを話してくれました。 「この鉄道は昭和三年に国鉄高森線として開通したんだよ。そのころは、大津町や熊本市に行く時は、一日かけて歩いて行ったそうだよ。パスも通っていなかったんだ。汽車は、一度にたくさんの人を運べるし、速いのでみんな大よろこびだったよ。」 おじいさんは、お茶を飲みながら話し始めました。 「昭和三年二月十二日の朝早く、高森の人たちのゆめを乗せた汽車がもくもくとけむりをはきながら、高森駅についたんじゃ。高森だけでなく、蘇陽町(今の山都町蘇陽)の親せきも来ていたよ。みんなうれしそうだった。なにしろ、はじめて汽車が来たんだからね。六百人の人が、さいしょのお客さんとして乗って来たそうだよ。出むかえの人もたくさん集まって、駅は人でいっぱいだった。わしもおいわいのはたをふってむかえたよ。みんな、大さわぎじゃった。大人も大よろこびでいも駅の近くにあった高森小学校でおいわいの会が開かれたって話じゃった。」 「どうやって汽車が来ることになったのかなあ。」 ゆうたがたずねました。すると、おじいさんは、遠くを見るように目を細めて、 「えきの横に、石ひがたてられていて、そこにくわしく書かれているんだよ。それには、津留源三郎さんという人のことが書かれている。源三郎さんが中心になって、がんばったそうじゃ。源三郎さんは高森町に生まれて、年も五十さいをこえたころに、何とか町を発てんさせたいと鉄道を開通することにカをつくしたんじゃよ。「陳情」といって、そのときの総理大臣におねがいしたそうだ。何回も東京に行ったそうだが、行くだけでも大へんだったろう。陳情がうまくいかなかったら、高森の人たちにもうしわけない。それでも、鉄道をひきたいと思ったから、決断して進めたのだろう。」 「こんな大仕事だから、高森が二つに分かれたらまずい。そこで、ライバルであった山村勇ときょう力したんじゃ。自分の手がらにしたいと考える人が多い時代に、ゆう気のいることだよ。このことは、そのころの新聞にも取り上げられておる。高森だけでなく、南阿蘇のみんながきょうカしたんじゃ。」 「大変な大仕事だったんだね。」 「その通りじゃ。ゆうたがこわがった戸下の鉄橋工事で四人の人がなくなり、トンネル工事も大へんだったそうだ。国でみとめられるのに四年かかり、工事が終わるまでに六年、あわせて十年かかったんじゃ。どうしても『高森に鉄道を!』という、強い気持ちをもちつづけたんだよ。そうして、やっと鉄道が開通したんだ。」 「ふーん。十年もかかったというなら、源三郎さんは、六十オをこえちゃうね。」 おじいさんは、もう一度お茶をすすると、 「はたらく人は地元の人だから、工事でけがをしたり、なくなったりするとせきにんを感じて、つづけていいか、まよったこともあるだろう。しかし、いいことだから、と中でやめると後かいするし、ゆう気をおこしたんじゃろう。」 その夜、ゆうたはふとんの中で、(トロッコ列車に乗って来てよかった)と思いました。高森についた時に、おじいさんがうれしそうにしていた気持ちがわかるような気がしました。
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「昭和の三とせ春浅み、山河新にきさらぎや、今日しも南郷開通の高森線は開けたり。」という歌詞で始まる、高森線鉄道唱歌があります。『昭和三年、まだ春はあさいけれど、山や川が新しく見えますよ。ニ月の今日、南阿蘇を開通した高森線が開かれましたよ』と歌っています。三十番まである歌です。 国鉄高森線の計画は、大正六年十二月からスタートしました。津留源三郎は、大正八年九月に原敬首相に会います。五回のうち三回、上京しています。大正十年帝国議会で予算成立。大正十二年工事開始。昭和三年二月十二日開通しました。総工費五百三十二万円(米の値段で計算すると今の七十億円くらい)。 国鉄高森線は、その後、戦争に負けた後や昭和ニ十八年の大水害の時も大へんな時期でした。一番こまったのは、宮崎県の高千穂につなぎたいと、昭和四十八年に始まったトンネル工事です。水がふき出して、近所では飲み水や水田の水がなくなり、工事を中止しました。 昭和五十九年、高森線のはい止が決まります。昭和六十一年四月一日貨物ゆ送をやめて、南阿蘇鉄道に生まれかわりました。トロッコ列車は、その南阿蘇鉄道の観光の目玉です。しかし、この鉄道は観光だけでなく、朝夕の通学・通きんや買い物、通院など地元の人の大切な足となっているのです。 津留源三郎も山村勇も高森町で生まれました。おさななじみでしたが、政治の上ではライバルで、きそいあって高森のためにつくしたことや、山村勇がかげになって鉄道開通につくしたことが、当時の九州日々新聞(今の熊本日日新聞)に害かれたそうです。
学生やお年寄りなど交通弱者の足として生活を支えてきた、そして南阿蘇の観光を支えてきた「南阿蘇鉄道」の早期の全線復旧を強く願う。
南阿蘇鉄道応援サイト↓ http://www.mt-torokko.com/ouen/
南阿蘇鉄道株式会社↓ http://www.mt-torokko.com/
(今回の舞台)
(2017年5月28日)
関連ページ(熊本国土学) <第39回>熊本地震で被害を受けた「南阿蘇鉄道」は今(南郷谷を鉄道で行く)(2017/01/29)