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ラフカディオ・ハーンが熊本に遺したもの

★平成28年熊本地震への対応。ハーンが愛し、後世へのメッセージとして遺した「熊本人の優れた精神文化(=熊本スピリッツ)」が間違いなくそこには顕われていた。

【熊本スピリッツ/道徳教育用郷土資料『熊本の心』(中学校)から】  「現在と関係して将来の事を考えるのは文明に欠くことのできない事である。文明国の人間なら誰でも、将来の事を考える。もうけてもすぐに全部を使ってしまわないで、賢い人ならその大部分を将来のために用意として貯えておく。これはごく普通の用心である。」  明治二十七(一八九四) 年一月、ラフカディオ・ハーンは五高(現在の熊本大学) の学生を前にして、こう語リかけた。そして、西欧の哲学者の立場から東洋の、そして日本の将来をこう予測した。 「私は、遠い昔から立居振舞の素朴さや正直を旨とする生活信条が熊本の美徳であったと聞いている。日本が将来発展できるかどうかはこの九州あるいは熊本精神を持ち続けることができるかどうかにかかっている。熊本精神(スピリッツ)--それは簡易・善良・素朴を愛し、日常生活での無用のぜい沢と浪費を憎む精神である。」  それから百年余リの年月が流れた現在、ハーンの予想通リ、日本は世界にも例を見ない発展を遂げた。しかし、経済大国と呼ばれるようになった今日、ハーンが美徳として称賛した熊本スピリッツは徐々に忘れられ始めている。  ハーンは、嘉永三(一八五〇)年六月二十七日、ギリシャで生まれた。父はアイルランド人で、当時ギリシャ駐在の軍医であリ、母はギリシャ人であった。数年後ハーンは、両親とともにイギリスに渡ったが、両親が離婚したため、大叔母の手で育てられた。ハーンの人生は出発点で早くもつまずき、その上学校での事故で一眼を失明しもう一方の眼も強い近視になるという不幸に見舞われた。このような障がいを負いながらも、作詞に優れ、大変な読書家で、英作文と文学の成績は抜群であった。  十九歳の時にアメリカに渡リ、五年の間職を転々とし、ありとあらゆる苦労を味わった末、新聞記者として認められた。そして、華麗な文章の魅力で名声をあげ、作家としても次々と作品を発表した。  明治二十三(一八九〇)年四月、ハーンはアーパーという出版会社の特派員として、かねてから深く心を引かれていた東洋の日本に渡ってきた。その年に、島根県の松江中学校の英語教師となって一年を過ごした後、翌年十一月、五高の教師として熊本に赴任した。熊本では手取本町の赤星晋作氏の家を借り、そこから黒髪町の五高に人力車で通った。その家は現在八雲公園の一隅に建っている八雲旧居(通称「八雲記念館」)である。  ハーンは熊本に約三年間滞在したが、熊本の印象は松江ほどはよくなかった。ハーンが求めていたものは、近代化していない古い日本の面影であリ、大きな古い神社や寺院、それに古い習慣が残っている日本の姿であった。熊本もかつては古くからの優雅さを残した城下町であったが、明治十(一八七七)年の西南戦争の際に町の大半が焼かれ、ハーンが熊本を訪れた時にはその良さが薄れていた。  しかし、ハーンは少しずつ熊本の美徳を発見していった。ハーンは努めて近所の人たちや行商に来る人たちと会話を交わし、庶民の素朴さや正直さの中に日本の古くからの良さを見い出した。  立田山に登る途中に小峯墓地があるが、そこに蓮華の形をした台座に乗った石仏がある。それが、いわゆるハーン遺愛の石仏である。ハーンは、授業の合間をみては一人ここに足を運び、歴史を考え、人生の行く末をめい想した。  当時の日本はまだ貧しい時代であった。豊かではなかったが、人をだますようなことはせず、誰に対しても親切で誠実であった。時として望外の収入があった時にも浪費をせず、わずかではあっても、将来のために貯えることを忘れなかった。ハーンは、幼い時に両親の離婚や一眼の失明などで、大変な苦労を味わっただけに、このような庶民の生活や心情を十分理解することができた。これこそ、彼が「熊本スピリッツ」と呼んだものであった。  ハーンは、日本と日本人を深く愛した。彼の愛した日本とは、西欧の近代文明を模倣した日本ではなく、独自の古い良さを残した日本であったし、彼の愛した日本人も、礼儀あり、侠気(弱いものを助ける気持ち)あリ、献身的で、信義の徳をもつ日本人であった。ハーンが見い出した熊本スピリッツは、あるべき日本の理想像でもあった。それはまた、幼い時から人生の辛酸をなめたハーンの人生哲学でもあったに違いない。  日本や熊本の良さは、日本人や熊本に住む人は気づかない場合が多い。外から来た人に言われて、初めて自分たちの誇りうる美徳を発見することがしばしばある。熊本スピリッツは、私たち熊本県人が、日本に、そして世界に誇りうる精神文化なのである。  しかし、物を大切にし、無用のぜい沢と浪費を憎む心も、生活が豊かになり、物があふれでくるにしたがって、忘れかけている。日本は、確かに経済大国と呼ばれるようになったが、石油や食糧資源などでは、大半を輸入に頼っている現状である。日本人が熊本スピリッツを忘れ、浪費に走るようなことがあれば、国際情勢の変化によっては、いつ今日の状態から転落するか分からない。ハーンの言葉は現代の日本がその繁栄を続けることができるかどうかを占う貴重な警鐘にもなっている。  ハーンは、明治二十七(一八九四) 年十一月に熊本を去リ、神戸に向かった。ここで彼は日本国籍を取得し名前を小泉八雲と改めた。  明治二十九(一八九六)年八月には、東京大学の英語英文学教師となって東京に移リ、亡くなるまで東京で過ごした。ハーンは日本で有名な『怪談』をはじめ数々の文学作品を発表した。  また、日本に英米の文化を紹介するとともに日本の理解者として日本を最も広く世界に知らしめた人の一人でもあった。熊本でも多くの著作を執筆しておリ、日本での最初の著作『知られぬ日本の面影』が初めてアメリカで出版されたのも、熊本在住中のことである。ハーンは、日本の良き理解者であるとともに熊本県民の心--熊本スピリッツ--の良き理解者でもあった。  ハーンは、明治三十六(一九〇三)年、東京大学を辞し、翌年の九月に五十四歳で永眠した。墓は東京の雑司ヶ谷墓地にある。」

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 小泉八雲は四十歳の時に日本を訪れ、島根県の松江で英語を教えた後、熊本に来て、五高(現在の熊本大学)の教師となる。学校に行く前に神棚に向かいかしわ手を打って拝むのが日課だった。熊本の風土と、生徒たちの素朴さに触れ、親近感を抱いていた。明治二十七(一八九四)年に『極東の将来』と題して行った講演は、当時の生徒たちに大きな感動を与えた。三年間の熊本の生活の中から生まれた『東の国から』『心』は、名作と評価が高い。熊本大学の構内には文学碑が建てられている。

(道徳教育用郷土資料『熊本の心』から)

【ラフカディオ・ハーンと熊本】  ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、明治24(1891)年に第五高等中学校(現:熊本大学)に赴任し、3年余りの間、英語とラテン語の授業を担当した。前述の『極東の将来』は、熊本を離れることとなる年(明治27年)のはじめ、五高の全校生徒を前にハーンが行った講義内容を記録したものであるが、後に『九州日日新聞』にも掲載され、各方面で読みつがれることとなった。とりわけ、「熊本スピリッツ」に触れた文章は、熊本県人の優れた精神文化を賞賛するものとして、また、日本の将来に対する示唆に富んだメッセージとして、熊本大学構内の碑に今も刻まれている。 「The future of greatness of Japan will depend on the preservation of that Kyushu or Kumamoto spirit, the love of what is plain and good and simple, and the hatred of useless luxury and extravagance in life. (Lafcadio Hearn, January 27,1894) 」  もう一つ、ハーンの「熊本(人)論」が顕れている文章として、『九州の学生とともに』をあげることができる。これによると、熊本(人)は極めて保守的であるが、この保守主義は理性的かつ実用的なものであり、古来のサムライ精神がなお生きている、そして国への忠誠心や愛国精神がとても強い、--熊本(人)はこれらを自負し、その伝統を誇りとしている、との分析である。3年余りという短い滞在期間ではあったが、ハーンは熊本(人)を理解し、その優れた精神文化を愛したのだと思う。

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 「(前略)熊本の学生たちから私が受ける印象は、出雲の中学校の生徒たちから受けた第一印象とはまったく違っている。これは九州の学生たちがすでに日本人の少年時代のとても素直な期間を経験しており、また誠実で無口な大人へと成長しているからばかりではなく、九州気質とでも呼ばれるものをかなりの程度表しているからである。九州は、古くから日本の最も保守的な地方であり、その中心である熊本市は保守的な気分の横溢したところである。とはいっても、この保守主義は理性的かつ実用的なものである。現に九州地方は、鉄道を敷設するのは早かったし、農業改良技術を取り入れたり、またいくつかの産業では科学技術を採用もしている。ただ国内の他の地域と異なって西洋の風俗習慣は模倣しようとせず、古来のサムライ精神がなお生きている。また九州魂というのは何世紀にも渡って、生活習慣のかなりの単純さから抽出されたものである。豪華な服装はじめそのほかの贅沢を禁じる奢侈禁止令は厳格に実行されている。このような決まり自体は時代を経て古くなってきているが、それらの影響は人びとのとても質素な服装やありのままの直截なマナーに現われている。熊本人は他のところでは大方は忘れられた行為の伝統に固執しており、また話し方や行動の、ある独特の開放感――外国人には定義が難しいのだが、教養ある日本人にはすでに自明のものである――によって特徴づけられているとも言われている。ここ熊本はまた、加藤清正公の堅固な城――現在駐屯するおびただしい第六師団兵――の威光の下に国を思う意識、つまり国への忠誠心や愛国の精神は首都東京よりもはるかに強いとさえ言われている。熊本はこれらを自負し、その伝統を誇りともしている。(後略)」(『九州の学生とともに』より)

 小泉八雲と熊本(熊本県観光サイトなごみ紀行)↓ http://kumanago.jp/benri/terakoya/?mode=064&pre_page=4

 「熊本のハーン」~小泉八雲没後百年~(熊本県観光サイトなごみ紀行)↓ http://kumanago.jp/benri/terakoya/?mode=129&pre_page=7

 『極東の将来』桃井恵一・桃井祐一(共訳)↓ http://www.kumamotokokufu-h.ed.jp/kumamoto/bungaku/yakumo3.html

 『九州の学生とともに』林田清明(訳)↓ http://www.aozora.gr.jp/cards/000258/files/58038_59852.html

【平成28年熊本地震への対応の中で】  平成28年熊本地震発生時における被災地の様子は、国内だけでなく海外メディアでも大きく取り上げられた。日本人の災害時における秩序ある行動は熊本地震に限ったものではないが、「礼儀あり、侠気(弱いものを助ける気持ち)あリ、献身的で、信義の徳をもつ」熊本人の姿が間違いなくそこにはあった。

★災害時においても高い民度「日本人は本当に恐ろしい民族だ」=中国(searchina)↓ http://news.searchina.net/id/1608361?page=1

 「熊本、大分両県で規模の大きな地震が断続的に発生したことは、中国でも大きく報じられたが、特に注目を集めたのは災害に直面しながらも秩序を失わない被災地の姿だった。 大勢の人が避難生活をおくる避難所は清潔に保たれ、物資が届いた際には誰もが公平に受け取れるよう列を作った。自己中心的な行動を取る人はおらず、困難のもとにあっても他人への配慮を忘れない姿は多くの中国人を震撼させたようだ。中国メディアの今日頭条はこのほど、秩序ある被災地の様子を紹介しつつ、「日本人は本当に恐ろしい民族だ」と伝えている。  日本人の災害時における秩序ある行動は熊本地震に限ったものではないとして、記事は日本でこれまで発生した災害時に共通して見られた日本人の行動の数々を紹介している。  階段に腰掛けて休む被災者たちが、階段の真ん中は通行人のために空けておきつつ、自分たちは階段の端に寄っている様子や、公衆電話を利用するために列を作る人びと、女性や子どもを優先して物資を提供する様子を写真とともに紹介した。  さらに、中国の雲南省で地震が発生した際、被災者に向けてテントが提供されたが、テントを受け取る際に「保証金」を支払う必要があったという事例を紹介しつつ、日本では災害が起きれば食べ物や飲み物が無料で提供されることを指摘。中国で見られた対応を皮肉った。  中国人はしばしば「自分たちにはできないこと」などについて、感嘆の意味を込めて「恐ろしい」という言葉で表現するが、記事も、災害時における日本人の民度、素養に対して「恐ろしい」と綴っているほか、被災者にとって地震災害は「もちろん災難である」としながらも、被災者の行動は全世界に向けた「学び」を提供していると伝えている。」(以上、引用)

★熊本地震、韓国メディアが「冷静に行動する日本人」を相次ぎ報道(Record China)↓ http://www.recordchina.co.jp/b134458-s0-c10.html#

 「2016年4月22日、震度7や6強の激しい揺れを繰り返し観測した「熊本地震」。地震活動はなお続き、多くの住民が不自由な避難生活を余儀なくされている。韓国メディアは、こうした中でも冷静に行動する日本人の姿を相次いで報じた。東日本大震災でも見られた光景で日本人にとっては当たり前でも、韓国人目線では、ある種の驚きだったようだ。  聯合ニュースは最大震度7の最初の地震が発生してから4日目の17日、熊本県内を取材した様子を配信。「日本人一人ひとりの体に染みついた秩序意識と他人への配慮を確認することができた」と指摘した。  記事は「熊本県庁では、食べ物を求める1人のおじいさんの元に数人が走り寄り、持っていた食べ物を分け与える姿が見られた」と例示。「正式な避難所となっている砂取小学校では、おかゆの配給が行われ、4人家族までは1杯、それ以上は2杯と、家族の人数分に応じた量が配られたが、かなり少ない量にもかかわらず、お代わりを要求する人はいなかった」とも報じた。  さらに、「上下水道局には長蛇の列ができ、2〜3時間は待たなければならない状況だったが、割り込みをする人などはおらず、秩序維持に当たる公務員の姿もなかった。そのほかにも、みんなが使うトイレに流す水を汗だくになりながら運ぶ高校生の姿や、アルミホイルに包んだ料理を無料で道行く人に配る居酒屋店主の姿も見られた」などと称賛した。 中央日報は「極限状況で目を引く日本の市民意識」との記事を掲載。「避難所では乱暴な声は聞こえない。救護品の遅れに対して政府や地方自治体を恨むこともなかった。極限状況の中でも秩序意識と配慮の精神はそのままだった」「成熟した市民意識、全国的な連帯で自然の挑戦を乗り越えている」などと伝えた。別の記事では熊本市内のコンビニで買い物をした主婦の「私がたくさん買えば他の人が困る」との声を紹介した。」(以上、引用)

 そして、被災地域や熊本県内の企業・各種団体・NPO等が、「チーム熊本」「チームくまもと」を合い言葉に、献身的かつ一丸となって、被災者の救援、生活再建や被災地域の復興支援活動に取り組む姿を、私はずっと目にしてきた。  ハーンが愛し、後世へのメッセージとして遺した「熊本人の優れた精神文化(=熊本スピリッツ)」が間違いなくそこには顕われていた。

(五高記念館(旧制第五高等中学校本館))

(ラフカディオ・ハーン レリーフ)

※熊本地震の被害を受けた五高記念館は、現在、修復工事中である。

(「極東の将来」の碑)

「The future of greatness of Japan will depend on the preservation of that Kyushu or Kumamoto spirit, the love of what is plain and good and simple, and the hatred of useless luxury and extravagance in life. (Lafcadio Hearn, January 27,1894) 」

(今回の舞台)

(2018年3月18日)

関連ページ(熊本国土学) <第29回>『熊本の心』(2016/12/04)

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