top of page

大宮神社と山鹿燈籠祭

★第十二代景行天皇の筑紫御巡幸に由来する大宮神社。「浴衣姿の女性が金灯籠を頭にのせ踊る」伝統とロマンにとんだ民俗行事の様相は幻想的で圧巻という他はない。

 熊本県北部の温泉地、山鹿の中心部に鎮座する大宮神社は、古くから氏神様・産土大神として地域の人々から篤い信仰が寄せられている神社である。その歴史は古く、第十二代景行天皇の筑紫御巡幸に由来しており、大宮神社公式ホームページでは「今から約2000年前、景行天皇御一行は、山鹿にお着きになり、杉山(現社地)に行宮(あんぐう)(仮の御所)を営ませられ、付近の賊を御平定になられ」、その後「行宮の跡地に天皇をお祀りしたことが大宮神社の創建であり、大宮と称するのもこれに由来して」いるとある。

 大宮神社公式ホームページ↓ http://oomiyajinja.p2.weblife.me/index.html

 また、由緒板によると、「第71代後三条天皇の延久4年11月15日菊池則隆公が阿蘇十二神を勧請し山鹿中村の田地36町歩を寄進した」とある。大宮神社は中世(11世紀)以降、菊池氏の庇護を受けたが、この菊池氏は、肥後国一之宮・阿蘇神社を信仰していたので、この時から大宮神社は阿蘇十二神を合祀することとなった。ちなみに、日本史に勇猛果敢な足跡を刻んだ菊池氏の家紋は「並び鷹の羽」として知られるが、大宮神社の神紋も「並び鷹の羽」である。

 本日(8月16日)、大宮神社の例祭「燈籠祭」が執り行なわれた。室町時代より約600年続く「上がり燈籠」をはじめ、景行天皇の奉迎儀式、たいまつ行列、千人燈籠踊りなど様々な神事、行事が行われ、多くの参拝客・観光客で賑わった。  燈籠祭の由来について、大宮神社公式ホームページでは、「今から約2000年前、景行天皇は、現在の玉名地方から阿蘇地方へ向かう際、菊池川を下流より遡られ、山鹿の火の口(現在の地名は宗方)に着岸されました。その折、一面に濃霧が立ちこめ進路を阻んだため、里人がたいまつをかかげて御一行をお迎えし、杉山(現在の社地)へお導きしました。天皇はここに行宮(仮の御所)を営ませられたといいます。その時の奉迎のたいまつの火が山鹿燈籠の起源と伝えられています」と紹介されているが、これ以外にも諸説があるようである。『トピックで読む熊本の歴史 岩本税・水野公寿編』(甘露書房)では、次のように紹介されている。 「山鹿灯籠のおこりの諸説を紹介しよう。①景行天皇が熊襲征伐の折、この近くで濃霧がたちこめて大変困っておられた。その時村人がタイマツを灯して行在所(後の大宮神社)にお迎えしたという説。祭日にはタイマツを献灯する慣わしとなり、天正のころ(一五七三~九二)、タイマツ代りに紙で作った灯籠を奉納するようになったのが「山鹿灯籠」起源とする説。②『金剛乗寺由来記』では、文明五年(一四七三)三月、とつぜん町の宝ともいうべき温泉が涸れてしまったため、同寺(山鹿市)の住職宥明法師が身命をうちこんで祈願したところ、一二月二四日に再び湧きだした。町の人びとは法師を大恩人として敬慕していたが法師が逝去したので、町内の紙細工の名人山口兵衛にたのんで数百の紙灯籠をつくり霊前にそなえたことから始まったという。その後延徳三年(一四九一)には宥明供養ののち七月一六日(旧暦)大宮神社に献灯するようになったとの説。③盆の行事として火の祭りと神社の祭事が結びつき、さらに夜宮祭りの風習がこれに加わったもので、室町時代ごろ成立し、江戸時代に盛んになったのであろうとの説。以上の三説が複合されて現在の千人灯籠祭になったのであろう。」

♪♪「ぬしは山鹿の骨なし灯籠/ヨヘホヨヘホ/骨もなければ肉もなし/ヨヘホヨヘホ」♪♪ 民謡「よへほ節」のメロディーにのって、浴衣姿の女性が、金・銀の紙だけで作られた金灯籠を頭にのせ、千人灯籠踊りがくりひろげられる。その様相は幻想的で圧巻という他はない。

 山鹿灯籠まつり(山鹿温泉観光協会)↓ http://www.y-kankoukyoukai.com/event.php

(大宮神社)

(大宮神社)

(灯籠踊り)

(景行天皇の奉迎儀式)

(たいまつ行列)

(千人灯籠踊り)

(千人灯籠踊り)

(上がり灯籠)

(奉納灯籠の数々)

(奉納灯籠の数々)

(今回の舞台)

(2017年8月16日)

最新記事
アーカイブ
​カテゴリー
​熊本国土学 記事一覧
bottom of page