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天草五橋と『橋にかけた夢』

★天草五橋は開通以来、九州屈指の広域観光ルートとして、また、生活道路、産業道路、命の道など、地域の様々な活動を支える生命線として大車輪の活躍をしてきた。地元出身の森慈秀(元熊本県議会議員・元大矢野町長)等の四半世紀にわたる尽力のおかげである。

【天草五橋の役割】 2017年04月28日、熊本県警は、ゴールデンウイーク(GW)期間中の県内主要道路の交通渋滞予想を発表した。県内で発生する渋滞は最長で、天草方面から熊本市方面に向かう国道266号で9キロ(5月5日午後5時頃)、阿蘇方面から熊本市方面の国道57号で8キロ(5月5日午後6時頃)と予想。主な渋滞箇所には、熊本方面から天草方面に向かう国道266号の5キロ(5月4日午前11時頃)も含まれていた。  そして予想通り、熊本~天草を結ぶ二つの幹線道路、「国道57号」と「国道266号」は交通混雑が目立った。特に、2つの国道が合流し、天草へ向かう「国道266号」(上天草市域)は大渋滞。幹線道路が1本しかないためだ。この幹線道路が「天草五橋」である。  天草五橋は、九州本土と天草諸島を結ぶ橋で、昭和41年完成。三角から大矢野島・永浦島・大池島・前島を経て天草上島まで5つの橋で結ばれており、開通以来、九州屈指の広域観光ルートとしてその役割を果たしてきた。また、天草五橋は、生活道路、産業道路、命の道など、地域の様々な活動を支える生命線としても大車輪の活躍をしてきた。

 天草五橋(天草宝島観光協会ホームページ)↓ http://www.t-island.jp/p/spot/detail/481

 女子スタッフおすすめの旅 天草の橋(天草宝島観光協会ホームページ)↓ http://www.t-island.jp/event_bridge

(国道266号の渋滞)

(大江教会)

(崎津教会)

(雲仙天草国立公園 鬼海ヶ浦)

(雲仙天草国立公園 天草五橋)

【天草五橋の建設と森慈秀】  戦後になるまで、天草は島嶼群であった。本土の熊本都市圏に接近していながら、道路が繋がっていない(陸上交通輸送が不可能である)ために、発展が阻害された後進地という悩みを抱えていた。  こうした状況にあって、1936(昭和11)年12月、地元出身の熊本県議会議員・森慈秀は「天草島の産業を振興し文化を促進し、国際観光客の誘致を全うするには、大矢野島と三角港に橋りょうを架設し、九州本土の一部たらしむるにある」と行動を起こし始めた。当時の日本の架橋技術は、天草諸島に橋を架けるほどの技術力はなく、森の県議会本会議での発言を実現することは到底不可能で、「夢物語だ」一笑に付される始末であった。戦争の足音も近づいていた。  戦後になって、大矢野町長になった森は、龍ケ岳町長の森國久、県議の蓮田敬介とともに「離島脱却」「天草架橋」のために奔走した。そして、県議会での最初の提案から四半世紀を経て、森の描いた架橋の夢の実現への執念は実を結ぶこととなった。1966(昭和41)年9月の天草五橋の完成・供用である。

■架橋の主な経緯  1936年12月 - 県議会で森慈秀議員が宇土-天草架橋を提案する。  1953年10月 - 天草全域が離島振興対策地域に指定される。  1954年12月 - 天草架橋期成会が発足する。  1955年03月 - 天草架橋一円募金が始まる。  1956年11月 - 日本道路公団による天草架橋の本格的な調査が始まる。  1960年04月 - 天草架橋実現世話人会が発足する。  1962年07月 - 天草架橋起工式が行われる。  1963年05月 - 日本道路公団天草架橋工事事務所が天草五橋のスタイルを発表する。  1964年03月 - 公募により天草架橋の愛称が「天草パールライン」と決まる。  1966年05月 - 日本道路公団が天草架橋の正式名称を「天草五橋」と決める。  1966年09月 - 天草五橋開通式(車500台での祝賀パレード)。           日本道路公団が管理する一般有料道路として供用開始。  1966年10月 - 天皇皇后両陛下、天草五橋にご巡幸。  1975年08月 - 償還完了により無料開放(当初計画より21年2か月も早く無料となる)。

 上天草市には、天草五橋の実現に尽力した森慈秀の銅像が建てられている。

(森慈秀の銅像)

(一号橋「天門橋」)

橋種:鋼橋  形式:連続トラス  全長:502m  区間:三角~大矢野島 中央径間300mは当時連続トラス形式として世界第1位 ※「天門橋」の隣では、「新天門橋(仮称)」の建設工事が進められている。本橋梁は、熊本市と県内主要都市を90分で結ぶ構想(90分構想)を実現する地域高規格道路「熊本天草幹線道路」の一部。

渋滞解消やリダンダンシー確保の観点から、地域から大きな期待が寄せられている。 http://www.shintenmonbridge.com/ ※熊本地震では、熊本~大分を結ぶ東西幹線軸「国道57号」が大規模斜面崩壊により長期の通行止めを余儀なくされ、県民生活や地域経済に大きなダメージを与えることになった。“1本の幹線道路が通行不能になっても代替、迂回できる幹線道路が別にある”、今回の熊本地震は、そういう重層的な交通ネットワークの必要性を改めて教えた。

(二号橋「大矢野橋」)

橋種:鋼橋  形式:ランガートラス 全長:249.1m  区間:大矢野島~永浦島 支間150mを超えるランガートラスは日本初

(三号橋「中の橋」)

  橋種:PC橋  形式:PC箱桁橋  全長:361m  区間:永浦島~大池島

(四号橋「前島橋」)

  橋種:PC橋  形式 PC箱桁橋  全長:510.2m  区間:大池島~前島   五橋の中で一番長い橋

(五号橋「松島橋」)

  橋種:鋼橋  形式:パイプアーチ  全長:177.7m  区間:前島~合津   パイプアーチとしてスパンが100m以上のものは日本初

 森慈秀による天草架橋実現の歴史は、本県(熊本県)の道徳教育用郷土資料『熊本の心』に、『橋にかけた夢』というタイトルで採録されている。

【道徳教育用郷土資料『熊本の心』から】 『橋にかけた夢』-中学校-  有明海のほぼ中央にぽっかり浮かぶ湯島は、周囲四キロメートルの小島である。大矢野町の本島から渡るのに今でも定期船で三十分ぐらいかかる。島の南側に一かたまりの家並みがあり、島のあちこちにアコウの大樹が生い茂っていて景色がよい。  森慈秀は、この離れ小島に明治二十三(一八九〇)年に生まれた。ほかの子どもと同じように海で泳いだり、魚つりをしたリしてのびのびと育ったが、その腕白ぶりは、親を困らせることもしばしばであった。そのころの湯島は、ちょっと風の強い日には海が荒れて、連絡船も通わなくなる。急病人が出て、どんなに医者を迎えたくてもただ空を仰いで嘆くほかはなかった。慈秀は、子どものころから離れ島の不便さ、つらさを嫌ど言うほど見聞きして育った。  学校を卒業して役場で働きながら勉強していた慈秀は、十八歳の時、中国へ渡った。十年余リ働いて事業に成功して、郷里に帰リ、大矢野島の江樋戸で、山林を経営する仕事を始めた。  昭和八(一九三三)年、山の松の木を売った金が四十円(今の五十万円)ほど手に入った。彼は、「この金は村のために役立つものに使いたい。何かこれだけでできることはなかろうか。」 と、近所の人たちに尋ねてみた。村の人たちは、いろいろ相談したあげく、 「それなら江樋戸のあの小さな瀬戸に橋をかけてもらいたいものです。」 と言う。この話に慈秀は、身を乗り出して言った。 「そうだね。あの瀬戸は潮の干いた時しか渡れんな。よし、あそこに石橋をかけよう。」  さっそく、村の人たち総出で橋づくリにかかった。やがて橋が出来上がると、人々は口々にお礼を述べる。 「森さん、 ありがとう。おかげで畑の仕事もはかどるし、急用の時もすぐ渡れるようになりました。」慈秀は、思いがけなく人々の喜ぶ姿を見て、 (あの小さな石橋でこんなに喜ばれる。  それなら天草と九州本土の間の海に橋をかけたら、どんなに喜ばれるか。) と思い始めた。少年のころの湯島の様子がよみがえってきて、ますます橋をかけたい という思いが膨らんでいくのだった。  三角と大矢野島の間の海峡の幅は広くはないが、険しい岩場が続いて潮の流れの速い所である。彼は、 (ここに橋をかけるとなると、自分一人の力では、どうにもならない。 国や県に働きかけることが必要だ。) ど考え、県議会の議員の選挙に出ようと決意した。  昭和十(一九三五)年、県議会議員に当選した慈秀は、議会で、 「天草を発展させるには、海に橋をかけて、九州本土と陸続きにすることが必要である。」 と提案した。しかし議員の多くは、 「あの海に橋がかけられるか。夢みたいなことを言うな。」 と、全く相手にしない 。 「川は幅が広くても橋はかかるが、海は狭くても橋はかからぬと言うのか。 現にオーストラリアには、海峡に橋がかかっているではないか。」 と、慈秀は、鋭く反論した。県議会だけでなく、世論もこの話を夢のかけ橋だと笑った。確かに、この計画には、多額の資金とすぐれた技術がいる。関門大橋や本四架橋が完成した今日と違って、その当時、海に橋をかけるなどとは一般の人々には、思いもよらないことであった。  反対を受けた慈秀は、それでも橋をかける夢を捨てなかった。独力で橋をかけようと考え、資金集めに、いろいろな事業を手がけて失敗したこともあった。しかし、戦争が激しくなるにつれて、橋をかける話は、いつの間にか立ち消えになってしまった。  戦争が終わり、しだいに社会が復興に向かうと、慈秀の架橋への思いは、再びよみがえった。その時、慈秀はすでに六十歳になっていた。それでも熊本から夜行列車でニ十五時間もかけて、東京の関係者のもとへ陳情に行く。それは、一回やニ回ではなかった。このころから慈秀の熱意に動かされ、天草の人々の架橋に対する気運もようやく高まっていった。  昭和三十(一九五五)年、天草架橋期成会が発足し、全県あげての運動が繰リ広げられ、島内では、一円献金運動が始まった。小さな子どももこづかいを節約してこの運動に参加した。  その後、大矢野町(現在の上天草市大矢野町)町長に選ばれた慈秀は、島氏の先頭に立って、何度も国や県に働きかけた。しかし、なかなか、国の最終決定は下されなかった。それでもあきらめず、上京を繰り返して大臣に天草架橋の必要性について説き続けた。  その努力の結果、昭和三十七(一九六ニ)年、天草の島々を五つの橋で結ぶ計画が決定され、 それから四年ニか月の歳月と三十一億円余の費用をかけて、夢のかけ橋が完成した。  昭和四十一(一九六六)年九月二十四日、開通式はあいにくの大雨と強風の中で行われた。 午前十時四十分、一号橋の入ロで紅白のテープが切って落とされると、 (天草は、もう離島ではないぞ。) という二十万島民の思いを込めた拍手の嵐がおこった。道端では、おとなも子どもも日の丸の小旗をちぎれんばかりに振リ続けている。それは、天草の島民が長い間待ち続けた感動の時であった。  その日、森慈秀は、深い感慨の中に、 「(天草に橋を。)という長い間の念願が実現しました。すべて天草島民の熱意のおかげです。」 と語っている。 -・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-  森慈秀は、天草五橋の生みの親として天草の人々から慕われている。天草の発展のためには橋が必要だと考えた。中国に渡って成功した後、東京の大学に入学して勉強する。いくつかの会社の社長になって十年ほど資金を貯めるための努力をした。橋を造り、島の人々の暮らしを豊かにするという夢を実現するために熊本県議会議員や町長になり、七十五歳の時、ついに天草五橋が完成する。町長を務めた天草郡大矢野町(現在の上天草市)から「大矢野名誉町民」の称号を贈られ、厚生大臣表彰ほか、数多くの表彰を受けている。

(今回の舞台)

(2017年5月4日)

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