日本最初の国家的装置インフラ「古代山城」、「鞠智城」は兵站と南方監視を担う
★天智天皇の大和朝廷(政権)がとった防衛体制は、まさに「本土決戦」を想定した「国家プロジェクト」であった。古代日本の防衛最前線「鞠智城」で、国家とインフラについて思いを馳せる。
今日、10月23日(日)は「鞠智城の日」。熊本県山鹿市菊鹿町の米原台地にある歴史公園鞠智城で、百済系銅造菩薩立像特別展示(年に1度だけ実物を展示)、古代衣装体験、古代米収穫体験など、様々なイベントが実施された。 「鞠智城は、東アジア情勢が緊迫した7世紀後半(約1300年前)に、当時の日本を統治していた大和朝廷(政権)によって築かれた城です。7世紀頃の日本は中国大陸や朝鮮半島との緊張関係にありました。663年の朝鮮半島における白村江の戦いで大敗した大和朝廷(政権)は、西日本の守りを固めるため各地に山城を築きました。ここ鞠智城は、九州を統治していた大宰府やそれを守るための大野城、基肄城に武器や食糧を送る基地だったと考えられています。」(歴史公園 鞠智城・温故創生館公式ホームページ) http://www.kofunkan.pref.kumamoto.jp/kikuchijo/
大化の改新(645年)によって律令制が確立、日本の国家体制がようやく整ったこの時代、朝鮮半島では百済と新羅が争っていた。当時、百済は日本にとって文化の集成地であり、日本と百済は深い友好関係にあった。一方、新羅は唐に援助を求め、「日本・百済連合」対「唐・新羅連合」の図式が鮮明になっていく。 そうした中、ついに百済が滅亡(660年)。これに対し、日本では中大兄皇子(後の天智天皇)が百済再興のために2万7000人の大軍を派遣、唐・新羅軍との決戦に挑んだ。決戦の場となったのは歴史の教科書でおなじみの白村江(はくすきえ・錦江の河口)。 しかし、日本の水軍は唐・新羅軍に大敗を喫し、大和朝廷(政権)は存亡の危機に立たされる。本土の守りを固めるため、唐・新羅軍の侵攻に備えて九州から瀬戸内海沿いに城塞「古代山城」を次々と築いていった。鞠智城もその1つに位置づけられる。この時、都も難波宮から大津宮へ緊急遷都された。 帝国書院の中学歴史教科書では、本文記述に「朝鮮半島では、唐が新羅と組んで百済を攻めたので、倭国は百済を支援するため大軍を送り、唐・新羅の連合軍と戦いました。しかし663年、倭国の軍は白村江で大敗し(白村江の戦い)、朝鮮半島から退きました。その後、朝鮮半島は新羅によって統一されました。倭国は、唐・新羅が攻めてくるのに備えて守りをかためるために、九州地方の政治や防衛にあたる大宰府を設け、西日本の各地に山城をつくりました。」とあり、図の説明で「大宰府を防衛するために、直線状の堀と土塁からなる水城が築かれました。また数mの高さの城郭で山を囲んだ朝鮮式の山城である大野城がつくられました。」と補足されている。 664年、博多湾から大宰府までの間に防衛線として全長1.2km、高さ13mもの大堤「水城」(現在の福岡県大野城市から太宰府市にかけて)を、そして665年には大宰府を挟むように大野城(現・大野城市・太宰府市・宇美町)と基肄城(現・佐賀県基山市)が築かれた。白村江の戦いから、わずか2年後のことである。 その後、武器や食料などの補給基地として鞠智城が、より手前の防衛ラインとして金田城(現・長崎県対馬市)が築かれた。さらに、瀬戸内海を挟む両岸にも数多くの古代山城が築かれ、これまでに西日本で(九州から畿内にかけて)22の古代山城が確認されている。 なお、鞠智城には、城の中心部から菊鹿盆地を一望することができることから、大宰府の南にあって、八代海・有明海を経由して南から侵攻してくる外敵を迎え撃つ役割もあったものと推測される。
後年、鎌倉時代の元寇で、わが国は国難に遭遇することになるが、それより600年以上前の天智天皇の大和朝廷(政権)がとった防衛体制(古代山城の建設、防人の配置など)は、まさに「本土決戦」を想定した「国家プロジェクト」であった。
古代日本の防衛最前線「鞠智城」で、国家とインフラについて思いを馳せる。
(鞠智城のシンボル「八角形鼓楼」)
(米倉と八角形鼓楼)
(灰塚展望台から臨んだ菊鹿盆地)
(帝国書院の中学歴史教科書の一コマ)
(今回の舞台)
(2016年10月23日)