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常陸国の風土が育んだ絶対他力という究極の思想

★私たち日本人は、この脆弱な国土の上で頻発する大規模な自然災害によって、ずっと昔から教育を受けてきました。親鸞聖人の絶対他力という究極の思想は、末法の世に疲弊した日本人の心を耕してくれたのではないでしょうか。


 私たちが暮らす日本は、世界的にみても自然災害が特に多い国として有名です。このことは、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツといった海外の教科書でも大きく取り上げられています。

 地震、津波、火山噴火、台風、洪水、土砂災害、雪害など、私たちの先祖はこれまで幾度も大きな自然災害に見舞われてきましたが、その都度屈することなく、苦難を乗り越えてきました。


平安末期から鎌倉初期は大災害・飢餓・疫病の集中期

 日本は歴史上、何度も大災害集中期を経験していますが、平安時代末期から鎌倉時代初期(12世紀末~13世紀中頃)の災害集中もすさまじいものでした。戦乱、大地震、大型台風、飢餓、疫病、・・・・。これらが当時の民衆に、生活や将来への不安の気分を起こさせなかったはずがありません。

 こうした大災害集中期を経たからこそ、鎌倉仏教と呼ばれる新しい仏教思想が民衆に浸透していきました。法然、親鷲、一遍、栄西、道元、日蓮などの活躍は、これらの災いで苦しむ民衆救済の思想が生み出した必然でした。


親鸞聖人(1173~1262年)と大災害・飢饉・疫病の歴史

・1180-85年 源平合戦(治承・寿永の乱) ・1181年 養和の飢餓 死者4万2300人(左京のみ) ・1185年 文治京都地震(M7.4) 死者多数 ・1192年 源頼朝、征夷大将軍任命 ・1201年 関東暴風雨(大型台風) 東京湾北部高潮災害 ・1206年 赤斑瘡(はしか)流行 元久から建永へ改元 ・1207年 親鸞が越後国、法然が讃岐国に流される(承元の法難) ・1207年 天然痘流行、台風災害 建永から承元へ改元 ・1213-14年 天変地妖(鎌倉で大地震) 建暦から建保へ改元 ・1219年 旱魃、鎌倉・京都の火災 建保から承久へ改元 ・1221年 承久の乱 ・1224-32年 5回連続で自然災害・疫病による改元 ・1230-31年 寛喜の飢餓 「天下の人種三分の一失す」 ・1232年 御成敗式目の制定 ・1241年 鎌倉で大地震(M7.0) 津波で由比ヶ浜大鳥居内拝殿流失 ・1256年 赤斑瘡流行 建長から康元へ改元 ・1257年 正嘉地震(M7.0~7.5) 鎌倉社寺の多くが倒壊 ・1258-59年 正嘉の飢饉、疫病流行 正嘉から正元へ改元



浄土教の系譜と法然聖人

 日本仏教の最大宗派、浄土真宗の宗祖とされる親鸞聖人(1173~1262年)は、まさにこの時代に活躍されました。

 そもそも、浄土教は、中国の隋の時代に善導大師が、「南無阿弥陀仏」と称名すれば救済されると説かれたことが始まりで、日本では平安時代に源信大師らによって貴族社会に広められ、その後、平安時代末期から鎌倉時代にかけて民衆にも定着していきました。そこから興った浄土宗(宗祖源空聖人=法然聖人)・浄土真宗・時宗(宗祖一遍上人)はいずれも念仏によって阿弥陀仏の救済をうけ、極楽に往生するというわかりやすい教えでした。

 法然聖人の教えの根本は、『仏説無量寿経』にある法蔵菩薩の誓願(四十八願の中でも、特に第十八願)を引用して、称名すると往生がかなうということを示し、またその誓願を果たして仏となった阿弥陀仏を十方の諸仏も讃歎しているとある『仏説阿弥陀経』を示し、他の雑行(厳しい修行など)は不要であるとしていることにあります。


偉大なる思想家・親鸞聖人

 一方、親鸞聖人の教えは、師・法然聖人の専修念仏を基本としたものですが、阿弥陀からの呼びかけを信じ順う心が発った時点で、念仏さえ要せずに極楽往生が定まる(その後の念仏は自然(じねん)の報恩である)とするなど、絶対他力の思想を極めたところに独自の特色があります。

 このような親鸞聖人の思想は、人間の原罪とキリストによる贖罪という構図を有するキリスト教に近いとの指摘や、仏教伝来前から現代に至るまで通底する日本の精神的土壌が、仏教を通して顕現したものであるとの指摘(鈴木大拙)もあります。


絶対他力の思想を確立させた常陸国の風土

 親鸞聖人が絶対他力の思想を確立されたのは、常陸国(現在の茨城県)での信仰深化と布教の時代。聖人は、42歳からおよそ20年間の壮年期を、常陸国を中心とした関東地方で過ごされましたが、この間に、活動拠点であった稲田草庵(西念寺:笠間市)で主著『教行信証』を著述されるとともに、2度の挫折(旱魃や飢餓で苦しんでいる民衆を救うため念仏を読誦するが、自力の行為と思い直して中止した)を経験されました。

 もともと常陸国は、「国広く、山も遥かに、田畑は肥え、広野の拓けた良き国である。海山の幸にも恵まれ、人々は安らぎ、家々は満ち足りてゐる。(中略)海川山野の幸の豊かなところ」で(常陸国風土記)、現在の霞ヶ浦は「香取の海」と呼ばれる大きな入り海をなし、江戸時代の利根川東遷による淡水化と干拓が進むまでは、この地域は、魚介類をはじめ、多様な生き物の宝庫でした。聖人はこの土地で、漁(猟)師や商人・農民といった人々と自身を寸分違いないものとして「われら」と言い、念仏を称えれば浄土へゆけることを説かれました。


親鸞聖人による国土への働きかけ

 茨城県水戸市にある真仏寺の近く、田園風景が広がる中に「親鸞聖人御田植御旧跡」が残されています。ここで聖人は、阿弥陀如来の教えを田植え歌に込めて歌い、忙しく働く農民たちとともに田植えをされたと伝えられています。『五劫思惟の苗代に 兆載永劫の代をして 一念帰命の種をおろし 自力雑行の草を取り 念々相続の水を流し 往生の秋になりぬれば この実とるこそ嬉しけれ 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏』

 また、茨城県鉾田市の無量寿寺には、聖人が「親鸞堤」と呼ばれる堤防を建設したという言い伝えが残されているようです。


日本人の心を耕した親鸞聖人

 「本師源空世にいでて 弘願の一乗ひろめつつ 日本一州ことごとく 浄土の機縁あらわれぬ(高僧和讃)」、「十七の憲章つくりては 皇法の槻模としたまえり 朝家安穏の御のりなり 国土豊饒のたからなり(皇太子聖徳奉讃)」など、後年に著した和讃では、親鸞聖人が到達した浄土教(真)の思想とそこに至るまでの道程がわかりやすくとりまとめられています。それは、仏教の故郷インドでも中国でもかなわなかった浄土教の日本における究極の発展形態でありました。親鸞聖人は、末法の世に疲弊した日本人の心こそ耕してくれたのではないでしょうか。


 吉本隆明が語る親鸞↓

東国布教の拠点・稲田草庵(西念寺:茨城県笠間市)


親鸞の風景・香取の海(現在の霞ヶ浦)


親鸞御手植えの田植え歌碑(真仏寺:茨城県水戸市)


(今回の舞台)


(2021年11月7日)

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