top of page

尾張の東海道と七里の渡し<尾張国土学⑤>

★三河との国境(境川)を経て、尾張に入った近世・東海道は、鳴海宿及び宮宿(熱田宿)を経由して、海路(七里の渡し)で伊勢国(桑名宿)に繋がっていました

 

尾張の東海道の変遷

 尾張国内の古代(延喜式)の東海道は、京都から伊賀国を経由して伊勢国に入り、伊勢国の榎撫(えなつ、現在の三重県桑名市多度町香取)駅から尾張国の馬津(まつ、現在の津島市松川)駅までは木曽三川の河口部を海路で横断し、そこから新溝(にいみぞ、現在の名古屋市中川区露橋町)、両村(ふたむら、現在の豊明市沓掛町上高根)を経由して三河国に入る「伊勢湾沿いルート」であったようです。

  一方、尾張地方の中世の東海道(鎌倉街道、京・鎌倉往還)のルートは、古代(延喜式)東海道とは異なり、京都から近江に出て古代東山道を通って不破関(関ヶ原)越えで美濃に入り、青墓(大垣市)・墨俣を経由して長良川を渡る「美濃廻りルート」であったようで、尾張では玉ノ井/黒田(一宮市)・折戸(稲沢市下津)・萱津(あま市)・熱田(名古屋市熱田区)・鳴海(名古屋市緑区)・沓掛(豊明市)を通っていたと考えられています。

 

 

 そして今回紹介する尾張地方の近世(江戸時代)の東海道は、古代(延喜式)東海道ルートとも中世東海道(鎌倉街道)ルートとも異なり、伊勢の「桑名宿」から尾張の「宮宿(熱田宿)」までは海路(七里の渡し)を用いる「伊勢湾横断ルート」でありました。当然、陸路を使うことも可能であったと考えられますが、あえて船賃が掛りかつ海難リスクを伴う海路を採用した理由は、①宮宿から西の濃尾平野は海抜ゼロメートル地帯にあり、洪水や高潮、地震による液状化などの災害発生リスクが非常に高く、真西に進む陸路の採用は現実的でなかったこと、また②北側に迂回する最短の陸上ルート(佐屋路)に比べても移動時間が大幅に短縮できること(海路だと桑名宿まで約4時間の行程。佐屋路で迂回する場合には、木曽三川の横断(=三里の渡し)を含め約1日の行程になる)にあったようです。

 

 <備える>災とSeeing(14)七里の渡し(名古屋市熱田区)|中日新聞

 

 このように、東海道のルートは時代とともに変遷してきましたが、その背景には、①求められる道路の役割・機能や主たる移動手段の違い(例えば、古代官道は有事の際の迅速な情報伝達が最優先事項であり、直線の陸上ルートを馬によって移動することに重きがおかれていた)や、②木曽三川下流域の河道・地形の変化(上中流域における治水事業の影響を含む)などがあったと考えられます。

 とは言え、いずれの時代にも公式な東海道ルートと異なるルート(陸路・水路・海路)を利用した移動が少なからず存在していたようで、尾張の東海道ルートは固定した概念で定義付けてしまわない方が良さそうです。ただ、いずれにしても「木曽三川を如何に越えるか?」が、尾張の東海道のルートを決定する鍵(最大の課題)であったということは間違いないようです。

 ちなみに、近代に入って、主たる移動手段が鉄道や自動車になったことで、また、長大な橋梁の建設技術が確立したことで、木曽三川には鉄道橋や道路橋が建設されるようになり、道路の東海道や鉄道の東海道は「伊勢湾沿いルート」に終息していきました。ただし、伊勢湾岸道路は海路(航路)ではありませんが「伊勢湾横断ルート」と言えますね・・・。



尾張の近世・東海道ルート

 過去のブログで三河国内の東海道五十三次を紹介してきたところですが、三河には東(江戸)から西(京都)に向かって、二川、吉田、御油、赤坂、藤川、岡崎、池鯉鮒(知立)という7つの宿場がありました。

 三河との国境(境川)を経て、尾張に入った近世・東海道は、鳴海宿及び宮宿(熱田宿)を経由して、海路(七里の渡し)で伊勢国(桑名宿)に繋がっていました。

 

 

 時を旅する 愛知の街道|愛知県



東海道40番目の宿場「鳴海宿」と「有松の町並み」

 「鳴海宿」は、東海道五十三次の40番目の宿場で、1843年(天保14年)の調査によると、家数847軒、人口3,643人で旅籠屋は68軒あったと記録されています。時の流れ(町の発展)とともに本陣や旅籠などは消滅してしまっていますが、宿場の入り口と出口に遺されている「常夜灯」だけは、当時のままの姿を留めています。

 前々回のブログ(尾張地方に残る鎌倉街道の面影<尾張国土学③>)で紹介したことと重なりますが、江戸時代後期に刊行された『東海道名所図会』にも、「むかしは鳴海潟を見渡し、浜伝いに宮より鳴海まで往き来しけるなり」と記されているように、中世までこのあたりは海沿いの土地であり、鳴海の地名は潮騒が聞こえたことに由来するようです。

 一方の有松は、東海道の宿場が整備された江戸時代初期、池鯉鮒(知立)宿と鳴海宿の間は人家も耕地もなく極めて寂しい状態であったため、旅人の安全のために尾張藩が移住を奨励してできた茶屋集落(間の宿)のことで、東海道を往来する旅人の土産物として絞り染め(有松絞り)が考案され、以降、有松絞りとともに有松のまちは発展しました。

 現在、「有松の町並み」は重要伝統的建造物群保存地区などに認定され、その保存を前提としたまちづくりが進められており、有松絞りによって繁栄した往時の様子を今に伝えています。

 

 江戸時代の緑区|名古屋市

 

 現代に特産品が残るトウカイの「宿場町」【東海道五十三次40番目の「鳴海宿」】〜近隣の有松とともに、絞り染めで名を馳せた宿場〜(名古屋市緑区)|フカボリトウカイ(中日新聞社)

 

 東海道鳴海宿 | 桶狭間合戦ゆかりの鳴海城跡と砦群そして笠寺観音|愛知,名古屋の東海道を趣味で歩く会!愛知ウォーキング街道歩きクラブ

 

 東海道有松宿 | 阿野一里塚と桶狭間古戦場そして有松絞り|愛知,名古屋の東海道を趣味で歩く会!愛知ウォーキング街道歩きクラブ

 

 有松伝統的建造物群保存地区及び有松町並み保存地区|名古屋市

 

 日本遺産 有松|有松・鳴海絞会館

 

 Network2010(東海道 鳴海宿)

 


江戸時代に建立された常夜灯(名古屋市緑区鳴海町)

※左:丹下町常夜灯、右:平部常夜灯


復元鳴海宿高札場(名古屋市緑区鳴海町)

※江戸時代、宿場の中央にあたる交差点北東角にあった鳴海宿高札場は、現在70mほど離れた場所に復元されている(江戸時代の鳴海の高札は名古屋市博物館に常設展示されている)。


有松の町並み(名古屋市緑区有松)

※竹田邸(市指定文化財)、服部邸(県指定文化財)など、重厚広壮な絞り問屋の形態を留める建築が今も残されている。

 

東海道41番目の宿場「宮宿(熱田宿)」

  「宮宿(熱田宿)」は、東海道五十三次の41番目の宿場で、熱田神宮の門前に古くから開けていた町(門前町、湊町)を母体として、近世以降は桑名宿(伊勢国)への船渡し場として、また徳川御三家の尾張徳川家の御城下・名古屋の表口として栄え、その繁栄ぶりは東海道随一とも謳われたほどです。実際、1843年(天保14年)には本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠屋248軒を擁し、家数2924軒、人口10,342人を数えたと伝えられています。

 これは、前回のブログ(尾張名古屋のまちづくりの起源<尾張国土学④> )において、内陸部(熱田台地の北西端)に形成された名古屋城と新たな城下町は、熱田台地の西縁に沿って開削された堀川(運河)によって熱田湊と結びつけられていて、その熱田湊の近くには、東海道最大の宿場町「宮宿」があり、次の宿場町「桑名宿」までは七里の渡し(海路)で結ばれていた・・・と記述したことと重なります。

 ただ、現在では周辺の埋立てや市街化の進展によって、往時の宮宿(熱田宿)や七里の渡しの面影を垣間見ることはほとんど出来なくなっています。

 

 東海道唯一の海路「七里の渡し(宮の渡し)」|名古屋市熱田区

 

 江戸と京を結んだ名古屋の『七里の渡し』─尾張の海の玄関口として東海道最大の宿場町として─|歴史人

 

 東海道宮宿 | 東海道最大の宿場!熱田神宮と七里の渡し|愛知,名古屋の東海道を趣味で歩く会!愛知ウォーキング街道歩きクラブ

 

 東海道 宮宿|Network2010.org


七里の渡し船着場跡(名古屋市熱田区神戸町)

※説明文『江戸時代、東海道の宿駅であった熱田は「宮」とも呼ばれ、桑名までの海路「七里の渡し」の舟着場としても栄えていた。寛永2年(1625)に建てられた常夜灯は航行する舟の貴重な目標であったが、現在は復元されて往時の名残りをとどめている。安藤広重による「東海道五十三次」の中にも宮の宿舟着場風景が描かれており、当時の舟の発着の様子を知ることができる。』


熱田神宮(名古屋市熱田区神宮)


笠寺一里塚(名古屋市南区白雲町)

※名古屋市内に残存する唯一の東海道一里塚。東側の塚だけが現存している。

 名古屋市:笠寺一里塚(かさでらいちりづか)(南区) (city.nagoya.jp)


(今回の舞台)

 

(2024年03月24日)

最新記事
アーカイブ
​カテゴリー
​熊本国土学 記事一覧
bottom of page