尾張名古屋のまちづくりの起源<尾張国土学④>
★清洲越しや堀川開削など、防災安全度の高い熱田台地の地形を活かした徳川家康公によるインフラ整備が、安全で快適な大都市・名古屋の発展の礎になっています。
大都市・名古屋のまちづくりの歴史
近世・尾張国の中心地であり、現在では、愛知県の県庁所在地・政令指定都市であるだけでなく、中部・東海地方における行政・経済・文化の中枢を担っている名古屋市は、中世以前から熱田神宮がある湊まちとして栄えていた「熱田」のまちと、徳川家康によって築かれた日本最大級の近世城郭「名古屋城」とその城下町が骨格となって拡大した都市です。
明治維新後は、鉄道(東海道線名古屋駅など)の開業や港湾(名古屋港)の開港、運河、幹線道路、路面電車、電気・ガスなどのインフラ整備を進めるとともに、これらを活かした産業振興を図ることで、名古屋市は近代産業都市として大きな発展を遂げました。
その後、戦災により、まちのシンボルであった名古屋城天守閣を始め、当時の市域の約1/4を焼失しましたが、大胆かつ先進的な戦災復興計画・復興都市計画を策定することで、100m道路(久屋大通と若宮大通の幅員約100mの道路)を始めとする幹線道路網や、数多くの都市公園(都心からの墓地移転により墓地と公園が一体となった平和公園など)の整備が可能となり、現在の名古屋市の骨格を形成するインフラが構築されました。
その後も、伊勢湾台風などの自然災害からの復興を遂げるとともに、地下鉄・地下街の開業、名古屋城天守閣の再建、高速道路ネットワークの整備、世界デザイン博覧会や愛・地球博(2005年日本国際博覧会)の開催などを通して、名古屋市は世界に誇る産業文化都市として発展を続けています。
名古屋のまちの成り立ち|名古屋市
名古屋開府400年のながれ|Network2010
清洲越し(徳川家康による名古屋城下のまちづくり①)
徳川家康は三河出身で、三河(岡崎)、遠江(浜松)、駿河(静岡)、江戸を主たる拠点としましたが、尾張名古屋城下のまちづくりにも大きな足跡を残しています。
戦国時代の三英傑(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)が天下統一を目指して活躍していた頃、尾張地方の中心地は清洲(清須市)でした。織田信長が桶狭間の戦いに出陣した場所も、本能寺の変の後に織田家の家督相続を決める会議(清洲会議)が開催された場所も、いずれも「清洲城」でした。この時代、清洲は日本政治の表舞台でもあったのです。
ところが、江戸幕府を開いた徳川家康は、豊臣家対抗の拠点である清洲城を廃して、熱田台地の北西端に名古屋城を築城し、これをきっかけとして尾張の中心を清洲から名古屋へ丸ごと移転(遷府)させました。これが「清洲越し」と呼ばれる「尾張名古屋のまちづくりの起源」になります。
その理由については、軍事・政治的側面(有事を想定した西へ備え、西国大名による天下普請)とともに、地理的側面が大きかった、具体的には①清洲城は低湿地(庄内川水系の下流域)にあり、付近を流れる五条川がたびたび氾濫するなどこの地域が水害に弱かった、②加えて一帯は軟弱な地盤で、清洲城が天正地震(1586年)で液状化するなど、大地震に伴う液状化のリスクが大きかったからと言われています。
この清洲越しは1610年に始まり、当時6万人規模であった清洲の都市機能のすべてが名古屋に移転されました。名古屋城の築城に合わせ、大規模な地割(武家地、社寺地、町人地の区画割)と町割(清須各町の移転先の割当)が行われました。城下町の中央、城の南には、近代都市名古屋の原型となる「碁盤割」の町割が形成され、主に町人地が配置されました。また、城を起点に碁盤割を囲む東・南・西には武家地が、城から離れた東と南の街道沿いには社寺地(寺町)が配置され、名古屋城の城下町が形成されました。
築城と城下町の形成、清須越/名古屋城について|名古屋市観光文化交流局名古屋城総合事務所
<備える>災とSeeing(1)清洲越し 「事前復興」家康の先見
ブラタモリ 名古屋編|名古屋観光情報 名古屋コンシェルジュ(名古屋観光コンベンションビューロー)
清洲城模擬天守(清須市)
清洲城模擬天守からみた名古屋城(写真中央部奥)
※現代にみる「清洲越し」の距離感。
名古屋城天守閣(名古屋市)
名古屋城御深井丸西北隅櫓(名古屋市)
※清須城天守の資材を転用して作られたため「清須櫓」とも呼ばれる。
五條橋(右岸:名古屋市西区那古野、左岸:中区丸の内)
※堀川にかかる五条橋は、元々清洲の五条川に掛けられていた橋であるが、名古屋城築城の際に徳川家康の命を受けてこの地に移築された。いわゆる「清洲越し」の橋であり、「堀川七橋」(名古屋開府時に堀川に架けられた7つの橋)の中で最も上流に位置する。
熱田湊と名古屋城下を結ぶ堀川の開削(徳川家康による名古屋城下のまちづくり②)
徳川家康による名古屋城下のまちづくりのもう一つのポイントは、名古屋城の築城と同時に、城郭の西から熱田湊までの延長1里半余り(約6km)の区間において、福島正則を総奉行として「堀川の開削」を行わせたことでした。
内陸部(熱田台地の北西端)に形成された名古屋城と新たな城下町は、熱田台地の西縁に沿って開削された堀川(運河)によって熱田湊(当時、熱田は海に面していた)と結びつけられたことで、その発展が担保されることとなりました。築城やまちづくりに必要な木曽檜などの資材、城下での生活に必要な米・野菜・魚・塩などの大量の物資は、幅12から48間(約22から87m)の堀川を通して、熱田湊から城下に輸送されたのです。
江戸時代を通して、堀川は、熱田湊から城下町への生活物資の運搬水路として、当時の名古屋の経済発展を担った物流幹線として、重要な役割を担い続けました。堀川沿いの四間道には、今でも蔵などが建ち並ぶ町並みが残っています。
そして、熱田湊の近くには、東海道最大の宿場町「宮宿」があり、次の宿場町「桑名宿」までは七里の渡し(海路)で結ばれていました。
堀川と木曽御領、ものづくり/名古屋城について|名古屋市観光文化交流局名古屋城総合事務所
ブラタモリ 名古屋・熱田編|名古屋観光情報 名古屋コンシェルジュ(名古屋観光コンベンションビューロー)
熱田区まちかど発見!熱田湊の風景|名古屋市熱田区
四間道町並み保存地区|名古屋市
堀川の流れと沿川に建つ福島正則の銅像(名古屋市中区栄「納屋橋ゆめ広場」内)
熱田湊常夜灯と七里の渡し船着場跡(名古屋市熱田区「宮の渡し公園」内)
『熱田湊の風景』(名古屋市熱田区「宮の渡し公園」内)
四間道沿いの町並み(名古屋市西区那古野)
国土地理院「デジタル標高地形図」で見る徳川家康の天才
今回紹介した「清洲越し(名古屋城築城と城下町形成)」と「熱田湊と名古屋城下を結ぶ堀川の開削」は、いずれも「熱田台地」を舞台として繰り広げられたインフラ整備がテーマでありました。
国土地理院のデジタル標高地形図に該当プロジェクトの位置をプロットすることで、防災安全度の高い熱田台地の地形を上手く利用して名古屋城下のまちづくりを進めた徳川家康の先見性と判断の正しさがよくわかります。
熱田台地と名古屋城下のまちづくり
※国土地理院のデジタル標高地形図「名古屋」(https://www.gsi.go.jp/kankyochiri/degitalelevationmap_chubu.html)を用いて作成。
木挽町通から名城正門に向かう坂道(名古屋市西区樋の口町)
※堀川から熱田台地に向かって急な登り坂になっている。
(今回の舞台)
(2024年03月17日)