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道路の歴史と御油宿/赤坂宿<穂の国「東三河」④>

★豊川市にある東海道五十三次の宿場「御油宿」と「赤坂宿」。御油宿には往時のマツ並木が残されており、官民一体となった保護活動が現在も行われています。


わが国の道路の歴史(古代~中世)

 前々回(第15回)のコラムにおいて、古代の道路「七道駅路(古代官道)」は、ハイスペックな規格(①目的地を最短距離で結ぶため可能な限り直線的に造られていた、②約16kmごとに駅家が設けられていた、③道路幅員は 12mにも及んだ)で、現代の高速道路と数多くの共通点を有していたと書きましたが、律令国家の衰退に伴い古代官道の多くは廃絶して、そのほとんどが使われなくなりました。

 その後、鎌倉幕府は、鎌倉と京都を結ぶ東海道ルートの整備や、諸国の御家人が鎌倉に馳せ参じる道の整備を行いましたが(これらの道路は総じて「鎌倉街道」と呼ばれている)、鎌倉幕府滅亡後は、室町・戦国時代に強大な政権が現れなかったこともあって、日本の道路システムは長期にわたって機能しなくなりました。⇒本格的な交通政策(全国的な幹線道路ネットワーク整備)は、徳川家康による「五街道」の整備を待つことになります。


 道路関係史年表/道の歴史|国土交通省


 鎌倉時代の道路政策/中世の道/道の歴史|国土交通省


 室町~戦国時代の道路/中世の道/道の歴史|国土交通省


江戸幕府による「五街道」の整備

 江戸時代初頭(徳川家康から秀忠の時代)、幕府は政治的・軍事的に重要な五街道(江戸・日本橋を起点に伸びる東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道を指す)を幕府直轄とし、その整備を図りました。

 具体的には(道路構造面では)、街道の道幅を広げて(標準幅員は約9m、山間部等では約4~7mに縮小)、砂利や砂を敷いて路面を固めるとともに、一里(約4km)ごとに一里塚を築いて、街道沿いには並木を植えていきました。

 また、街道沿いに一定間隔で宿場を設置し、各宿場に人馬の常備を義務付けることで、幕府公用の役人の荷物運搬にあたらせるとともに、江戸の防衛を目的として、街道の要所に関所を置いて通行人の取り締まりを行いました。

 その後(家光の時代になって)、参勤交代が義務化されると、大名行列は必然的に道幅が広い五街道を行き来せざるを得なくなり、これが宿場をはじめとする街道筋に大きな経済効果をもたらし、やがて庶民の寺社巡りや温泉旅行にも利用されるようになることで、五街道、とりわけ江戸(日本橋)と京都(三条大橋)を結ぶ東海道は、人と物が行きかう主要な交通インフラとして大きく発展していきました。

 なお、中学「歴史」教科書の学習内容の中で、道路のこと(役割・機能、ネットワーク、整備効果など)が載録されている箇所は極めて限られていますが、唯一、「五街道の整備」だけは、全て(全7社)の教科書がまとまったページを割いてこれを紹介しています。


 五街道/近世の道/道の歴史|国土交通省


 五街道の道路整備と維持管理/近世の道/道の歴史|国土交通省


 中学「歴史」教科書で学ぶ「国土への働きかけ」(建設マネジメント技術2022.12)


江戸時代の東三河地域の街道

 江戸時代の東海道には53の宿場が設けられ(五十三次)、東三河地域には、二川、吉田、御油(ごゆ)、赤坂の4つの宿場がありました。また、東海道の付属街道(バイパス)として、御油から嵩山(すせ)・三ヶ日・気賀(きが)を経て東海道に合流する「本坂通(姫街道)」も整備され、さらに脇街道として、田原に向かう「田原街道」、信州飯田に至る「別所街道」、飯田に至る「伊那街道」なども通っていました。

 なお、この時代の東海道のルートは、現在の一般国道1号(国土交通省管理)に沿ったルートであり、豊橋市内にあった吉田宿と二川宿については、本ブログの第3回「江戸時代の交通と暮らし」で紹介させていただいたとおりです。


 東海道と吉田/とよはしアーカイブ|豊橋市




御油宿は東海道35番目の宿場

 御油宿(愛知県豊川市)は、東海道の江戸日本橋から数えて35番目の宿場で、34番目の吉田宿から御油宿までが2里22町(約10km)あるのに比べ、御油宿から次の赤坂宿までは16町(約1.7km)しかなく、御油~赤坂間は東海道で最も短い宿場間隔となっています。

 この御油~赤坂間の旧東海道沿いには、国の天然記念物に指定されているマツ並木が現在も残されており、地元の御油松並木愛護会をはじめ、官民一体となった保護活動が現在も行われています。

 2009年度(平成21年度)からは、豊川市教育委員会が策定(改訂)した「御油のマツ並木保存管理計画」に基づき、豊川市と御油松並木愛護会、豊川市立御油小学校の児童が連携して、毎年、クロマツの苗木の植樹(補植)が実施されています。これは、御油小学校6年生の総合学習「思いを受け継ぐ」に位置づけられている学習プログラムで、児童が郷土の歴史を学ぶ(体感することのできる)貴重な機会にもなっています。


 東海道御油宿|Network2010


 御油宿/豊川の歴史散歩|御津町商工会


 御油のマツ並木/豊川の歴史散歩|御津町商工会


 国指定天然記念物御油のマツ並木保護事業|豊川市


 「御油のマツ並木」植樹作業の実施|豊川市


東海道(二川宿本陣資料館)


御油のマツ並木①(豊川市御油町)


御油のマツ並木②(豊川市御油町)


御油のマツ並木③(豊川市御油町)


東海道36番目の宿場「赤坂宿」

 江戸から数えて36番目の宿場町となる赤坂宿。当初、赤坂・御油宿は一宿として扱われていたと言われています。その後「下りは藤川から(赤坂を飛ばし)御油まで通し、上りは吉田から(御油を飛ばし)赤坂宿まで」と定められ、上りと下りで使い分けられていた時期もあったようです。

 赤坂宿の佇まいを今に伝える旅籠大橋屋など、現在でも歴史的な建物や当時の町割りが残り、宿場町の風情を今に伝えています。


 東海道二川宿|Network2010


 赤坂宿/豊川の歴史散歩|御津町商工会


 大橋屋(旧旅籠鯉屋)|豊川市


赤坂宿


旅籠「大橋屋」


(今回の舞台)



(2023年04月23日)

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