尾張国府と古代の東海道<尾張国土学②>
★尾張大國霊神社の祭事や考古学的研究の成果を通して、古代尾張国の「制度インフラ」や「装置インフラ」を学ぶことができます。
古代の「制度インフラ」と「装置インフラ」
社会システムを構成する「制度インフラ」と「装置インフラ」、具体的には、法律に代表される「制度インフラ」と、道路や橋、港湾、上下水道といった社会資本に代表される「装置インフラ」は、いずれも時代の変化やくらしの高度化に応じて、それらの内容を変化・改善させ、われわれの暮らしを豊かにしてきました。
古代で言えば、律令体制下の地方統治機構(制度インフラ)を構築するとともに、これとあわせて官道や条里制など(装置インフラ)を整備したことが、最大のポイントであったと思います。
大宝律令(701年)の制定によって、わが国は本格的な国家体制(=中央集権国家)と地方行政組織を整えました。地方は、国・郡・里(郷)に編成され、国司・郡司・里長がおかれました(国郡里制)。郡司には従来からの在地支配者である国造(くにのみやつこ)などの地方豪族が、里長には地元農民の代表者が就き、いずれも任期はありませんでしたが(世襲的に任命)、最上位の国司については、中央の官人が任期付きで派遣されました。また、官道「七道駅路」を整備することによって、地方の政務は朝廷(ヤマト王権)によって絶えずグリップされていました。
他にも、戸籍に基づく徴税(租・庸・調)や班田収授(口分田)の仕組み、それを支える条里制(田地の区画整理)など、律令制度は、天皇(朝廷)を中心にそれ以外の支配対象を制御するという典型的な「中央集権国家」の成立を図るものでした。
稲沢市にあった尾張国府/総鎮守神「尾張大國霊神社」
前回のブログにて、尾張国の国府が中島郡(現・稲沢市)にあったことに触れましたが、現在、稲沢市内には、尾張国総社である「尾張大国霊神社」や、尾張国衙の推定地であることを示す「尾張国衙址碑」、さらには「尾張国分寺跡」などの施設・史跡が遺されており、尾張国の政治・司法・軍事・宗教の中心が古代この地にあったことが確認できます。
尾張大国霊神社は、その名の通り「尾張大國霊神(おわりおおくにたまのかみ)」を祭神とする神社で、尾張地方の総鎮守神、農商業守護神、厄除神として広く崇敬を受けてきました。奈良時代、国衙に隣接して鎮座していたことから尾張国の総社と定められ、国司自らが祭祀を執り行っていたことから通称「国府宮(こうのみや)」と呼ばれています。
祭神について、神社公式ホームページでは「尾張人の祖先がこの地に移住開拓し、その日その日を生きていく糧を生み出す根源である国土の偉大なる霊力を神として敬い、尾張大國霊神としてお祀りした」と説明されています。
なお、当神社は「天下の奇祭」と呼ばれる「国府宮はだか祭り」で有名ですが、この祭は今から約1250年前に尾張国司が尾張総社である尾張大國霊神社で厄払いをしたのがはじまりで、この神事に、裸の寒参り風習がドッキングして現在の祭りになったと言われています。
はだか祭の由来について、神社公式ホームページは次のように説明しています。
尾張大国霊神社
国府宮はだか祭|稲沢市
尾張国府推定地(尾張国衙址碑)|ニッポン旅マガジン(プレスマンユニオン)
尾張国府跡の研究 (1) |愛知県埋蔵文化財センター
史跡尾張国分寺跡|稲沢市
尾張大国霊神社・拝殿(稲沢市国府宮)
尾張大国霊神社 鳥居と参道/楼門
尾張国衙址碑(稲沢市松下)
律令国家を支えた古代の高速道路「古代官道」
古代律令制において定められた官道「七道駅路」。朝廷が求めたその役割は、第1に有事の際の迅速な情報伝達、第2に軍隊の移動、第3に公用役人の移動、第4に租庸調による貢納物の輸送でした。
馬による通行が主体であった「駅路」は、目的地を最短距離で結ぶため、可能な限り直線的に造られていました。また、駅路には、約16kmごとに駅家(うまや)が設けられ、道路幅員は 12mにも及んだことが発掘調査からわかっています。
武部健一氏(1925-2015)は、駅路には、現代の日本列島を走る高速道路網と、下記のようないくつかの共通点があると指摘しています。(武部健一著、『道路の日本史』〈中公新書〉、中央公論新社、2015年)
①路線延長が国土開発幹線自動車道建設法で計画された路線延長(6500km、北海道除く)に近い。
②路線構成が似ている(東海道=東名高速、東山道=中央道、・・・)。
③駅路の通るルートが、高速道路と同じような場所を通る。
④駅家のあった場所は、高速道路インターチェンジ (IC) と位置が近い。
⑤道路網としてのネットワーク機能(リダンダンシー)を持たせている。
とりわけ、①~③については、高速道路と駅路が「遠くの目的地に向かって計画的かつ直線的に道路を結ぶ」という共通の目的を有していた結果であると指摘しています。繰り返しになりますが、駅路は馬による通行が主体であったことから、目的地を最短距離で結ぶ直線的なルートが選ばれました。これに対して、江戸時代の五街道・脇街道および、明治時代以後に定められた国道(一般国道)は、宿場や市街地を通って地域の道路を結びつけた路線からなっており、とりわけ江戸時代は、道が多少屈曲していても、徒歩の旅行者が容易に行き来できる経路が選ばれたとのことです。
七道駅路/古代の道/道路の歴史|国土交通省
七道駅路の幅員について/古代の道/道路の歴史|国土交通省
五畿七道と駅伝制/古代の道/道路の歴史|国土交通省
尾張国内の古代東海道
尾張国内の東海道には、馬津(まつ、現在の愛西市町方町松川)、新溝(にいみぞ、現在の名古屋市中川区露橋町)、両村(ふたむら、現在の豊明市沓掛町上高根)という3箇所の駅家が設けられ、伊勢国の榎撫(えなつ、現在の三重県桑名市多度町香取)駅から馬津駅までは木曽三川の河口部を海路で横断していたようです。
また、尾張国府(稲沢市国府宮)との位置関係で言えば、古代(延喜式)の東海道は尾張国府から最短距離で8kmほど北に離れていたようで、その間の連絡には、馬津・新溝両駅付近から国府まで別途の連絡路があったと考えられています。「何故、尾張国府が古代東海道沿いになかったのか?」については、大化当初(7世紀末頃まで)は、尾張国は東山道(行政区分)に属していた可能性が高く、駅路としての東山道には美濃国府から尾張国府を迂回して再び美濃国に入る別路があった(古代駅路は複線的であった)からであると考えられています。
なお、東海道もその頃(大化当初)は、志摩国の鳥羽から伊良湖水道を海路で渡り、渥美半島(三河国/参河国)に上陸するルートであったと考えられています。
(以上、「木下良監修・武部健一著、『完全踏査 古代の道』、吉川弘文館、2004年」及び「島方洸一企画・編集統括、『地図で見る東日本の古代 律令制下の陸海交通・条里・史跡』、平凡社、2012年」より)
【1】古代の東海道…津島から|歴史紀行 なごや 幻の古代道路を追って(池田誠一)
(今回の舞台)
(2024年03月03日)