岡崎城主・田中吉政のまちづくり<三河国土学②>
★わずか10年間の岡崎治世でありましたが、城下町建設、街道再編、矢作川築堤、矢作橋建設など、田中吉政がデザインしたまちづくりは、現在も確実に受け継がれています。
戦国大名・田中吉政
田中吉政は、羽柴家(後の豊臣秀次→秀吉)に仕えた武将で、1590年(天正15年)徳川家康が関東に領地替えになった後に岡崎城主となり、1600年(慶長5年)までこの地を治めました。また、秀吉の死後は徳川家康に接近し、同年9月の関ヶ原の戦いでは東軍に所属、西軍を代表する武将・石田三成を捕縛するなどの勲功が認められ、戦後は筑後一国柳川城32万石を与えられました。
吉政は、岡崎10万石の城主として、また柳川32万石の城主として領国の経営に力を注ぎ、彼が行ったインフラ整備(城下町や街道の整備、主要河川の治水、水運や稲作に資する用水路の整備など)の功績は、後の両都市の発展の礎となりました。また、岡崎では毎日城下の見回りを日課としたようで、道端で弁当も食べたことから気さくな領主として庶民からも慕われたと言われています。
田中吉政像(岡崎市・御旗公園)
近世岡崎の発展の礎を築いた吉政の功績
岡崎城主・田中吉政の代表的な国土学的功績としては、①岡崎城の城郭と城下町を整備したこと(街づくり)、②矢作川に一連の堤防を造ったこと(治水事業)の二点を挙げることができます。
城郭・城下町の整備に関して、吉政は「東の徳川家康への備え」として強固な城郭を構築するため、岡崎城の城域を拡張し、石垣や城壁を整備して近世城郭につくり替えるとともに、それまで菅生川(乙川)の左岸(岡崎郊外)を通っていた東海道(鎌倉街道)を右岸の城下に引き入れ、この道を曲がり角の多いクランク状に整備することで、敵の大軍の攻撃を最大限防御し得るよう工夫しました(「岡崎二十七曲り」)。
また、城下町全体を堀と土塁でぐるりと囲む総構え(惣曲輪)構造とし、城の東に家臣団を、西に商人や職人を分けて住まわせる大規模な都市改造を計画、後世に繋がる城下町を整備しました。
江戸時代(泰平の世)に入って、岡崎は軍事拠点としての性質をほぼ失いましたが、東海道五十三次有数の宿場町として発展を続けました。岡崎二十七曲り(欠町から伝馬通、材木町から八帖町、矢作橋へとつながる)の街道筋には、現在でも当時の繁栄を偲ぶことのできる碑や常夜燈が残されています。
田中吉政が、矢作川に橋を渡し(※後述)、東海道を岡崎の城下町の中心部を通るように変更したことで、岡崎城下は人の往来が盛んになり、のちに東海道五十三次の中でも屈指の規模を誇る宿場町として発展するに至ったのです。
岡崎城|愛知県岡崎市公式観光サイト
岡崎宿東海道二十七曲り|愛知県の公式観光ガイドAichi Now
【まち歩き企画】歩いて、学んで!二十七曲りウォーキング|ぽけろーかる((株)まちづくり岡崎)
岡崎城総堀跡発掘調査 現地説明会(H30.7.21)|岡崎市
岡崎城(岡崎市)
岡崎二十七曲り(岡崎市)
矢作橋(岡崎市)
※田中吉政の時代に土橋が架けられたのが始まりで、江戸時代には日本一長いと謳われた木橋が架けられ、交通の要路として栄えました。歌川広重の浮世絵(東海道五拾三次 岡崎 矢矧之橋)にも描かれています。
矢作川の大規模改修(一連の築堤工事)
岡崎城主・田中吉政のもう一つの国土学的功績としては、矢作川の大規模改修(一連の築堤工事)を挙げることができます。
矢作川は、15世紀中頃までは、自然の流れのままに幾筋もの流れがあり、中下流でたびたび氾濫し、流れを変えていました。こうした中、1594年(文禄3年)に豊臣秀吉の命を受けた岡崎城主・田中吉政は、矢作川(本川)の大規模治水事業、具体的には中流域西部・南部の河道一本化工事(一連の築堤工事)に着手し、矢作川中流域をほぼ現在の形(河道)に造り上げました。
ただこの時代、矢作川の下流部は今の矢作古川を流路としており、川幅が狭かった(河川断面が小さかった)ことから、吉政による中流域の河川改修(築堤)の効果は現れず、むしろ逆に遊水地(妙覚池)などが消失したことで下流域の水害を激増させてしまいました。
江戸時代に入って、1605年(慶長10年)徳川家康が米津清右衛門に命じて、下流の台地(現西尾市矢作古川の分流点より米津町油ヶ渕流入地までの台地)を開削して、今の矢作古川から川を付け替え、現在の矢作川(本川)の川筋を概成させたことで、吉政が先行して実施した矢作川改修(築堤)の効果が顕れることとなり、本格的な矢作川の舟運も可能となりました。
また、矢作川の堤防が完成した(流路が固定された)ことで矢作橋の架橋が可能となり、このことが東海道ルートの再編や城下町(宿場町)岡崎の繁栄を導くことになるのです。
矢作川の歴史|国土交通省
矢作川のページ|中部地方整備局豊橋河川事務所
矢作川(田中吉政の大規模改修区間、渡橋から下流を望む)
田中吉政による岡崎治世は、徳川家康の関東移封から関ヶ原の戦いまでのわずか10年間しかありませんでしたが、城下町建設、街道再編、矢作川築堤、矢作橋建設など、彼が郷土に働きかけてくれたその果実(功績)は、その後の岡崎市の発展に確実に寄与しています。
(今回の舞台)
(2023年08月20日)