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古代の常磐自動車道と平将門の乱

★古代官道は幅が広く、直線性に優れた交通インフラとして、古代の人・物の移動を大きく支えていました。平将門があれだけの長距離を短時間に移動できたのも、古代官道が整備されていたからなのです。


古代官道は常陸国民衆の「嘆き街道」

 古代律令制において定められた官道「七道駅路」。朝廷(ヤマト王権)が求めたその役割は、第1に有事の際の迅速な情報伝達、第2に軍隊の移動、第3に公用役人の移動、第4に租庸調による貢納物の輸送でした。

 東海道の終点・常陸国の場合、租庸調の負担だけでなく、陸奥国の蝦夷攻略の兵站拠点として、また、まだ緊張の解けない朝鮮半島情勢に対応して九州に送られる防人の供給基地としても朝廷から大きな期待をかけられていましたから、民の負担は非常に大きかったのではないかと考えられます。「防人に立たむ騒きに家の妹がなるべきことを言はず来ぬかも(若舎人部廣足)」「筑波嶺のさ百合の花の夜床にも愛しけ妹ぞ昼も愛しけ(大舎人部千文)」など、常陸国の防人の歌からは、大いなる嘆きの声が聞こえてきます。


防人の歌(下妻市大宝八幡宮)

「筑波嶺の さ百合の花の 夜床にも 愛(かな)しけ妹ぞ 昼も愛しけ」

(原文:都久波祢乃 佐由流能波奈能 由等許尓母 可奈之家伊母曽 比留毛可奈之祁)


古代官道と現代高速道路との共通点

 駅路は、目的地を最短距離で結ぶため、可能な限り直線的に作られ、幅は 12mにも及んだことが発掘調査からわかっています。また、駅路には、約16kmごとに駅家(うまや)が設けられました。

 さらに、武部健一氏(1925-2015)によると、駅路には、現代の日本列島を走る高速道路網と、下記のようないくつかの共通点があると指摘されています。

 ①路線延長が国土開発幹線自動車道建設法で計画された路線延長(6500km、北海道除く)に近い。

 ②路線構成が似ている。

 ③駅路の通るルートが、高速道路と同じような場所を通る。

 ④駅家のあった場所は、高速道路インターチェンジ (IC) と位置が近い。

 ⑤道路網としてのネットワーク機能を持たせている。

 とりわけ、①~③については、高速道路と駅路が作られるにあたっての共通目的として、遠くの目的地に向かって計画的かつ直線的に道路を結んだ結果であるとされています。駅路は馬による通行が主体であったことから、道は直線的で、多少険しくても水による交通断絶リスクが少ないルートが選ばれました。これに対して、江戸時代の五街道・脇街道および、明治時代以後に定められた国道(一般国道)は、宿場や市街地を通って地域の道路を結びつけた路線からなっており、江戸時代は、道が多少屈曲していても水が得やすい場所で、徒歩の旅行者が容易に行き来できる経路が選ばれました。


常陸国の古代官道

 常陸国は東海道の終点に位置しており、『常陸国風土記』が編纂された頃の東海道駅路は、鎌倉以東、三浦半島~浦賀水道~房総半島(上総国富津)~上総国府(現在の千葉県市原市)~下総国荒海駅(同成田市)~香取海(現在の霞ヶ浦を含めた大きな内海)~常陸国榎浦津駅(同稲敷市)~常陸国府(茨城県石岡市)というルートであったようです。

 また、記には、榎浦津(信太郡)のほか、曽尼(行方郡)、板来(同)、平津(那賀郡)、河内(同)、助川(久慈郡)、藻島(多珂郡)、大神(新治郡:逸文)という駅家の名称も見られ、さらに『延喜式』の時代(10世紀前半)には、常陸国には16か所の駅家が存在したという記録も残されています。

 つまり、古代の常陸国では、国府・石岡が終点ではなく、安侯駅家(あごのうまや、笠間市)、河内駅家(こうちのうまや、水戸市)を経て、陸奥国まで駅路が整備されていたのであり、これらを裏付ける形で、五万堀古道遺跡(笠間市)、長者山官衙遺跡(日立市)、仁井谷遺跡(北茨城市)など、駅路や駅家の遺跡が茨城県内各地で発見されています。


 日本古道紀行/常陸国↓


 国史跡「長者山官衙遺跡及び常陸国海道跡」指定記念(日立市)↓


 文字史料にみる「藻島駅家」(日立市)↓


常陸国の駅路(日本古代紀行HPより)

※近江俊秀『海から読み解く日本古代史』朝日新聞出版2020年 に加筆


常陸国府跡・常陸国分寺跡(石岡市)


古代の常磐自動車道「五万堀古道」(笠間市HPより)

 五万堀古道遺跡は、常磐自動車道友部サービスエリアの南に位置する笠間市長兎路(ながとろ)地内にあり、昭和45~47年に行われた圃場整備の際、地下30~50cmから発掘されました。場所としては、古代官道「東海道」の延長、安侯駅家から河内駅家に向かうルートに位置します。前九年の役(1051~62年)に出兵した源義家が、五万の兵を率いて涸沼川を渡り、長兎路を通過した際、兵の数を数えたところ五万あり、堀のような形状をしていたことから、それ以降この地を五万堀と呼ぶようになったといわれています。

 その後、平成10年から11年にかけて、この台地上を通る五万堀古道の一部が茨城県教育財団によって発掘調査されました。調査の結果、両側に側溝を伴う幅10mの大規模な直線道路跡が長さ約280mにわたって確認されました。五万堀古道は、7世紀後半の敷設、駅路として9世紀まで機能したと考えられています。

 現在の地図を眺めてみますと、常磐道自動車道は、五万堀古道に沿うように作られています。古代の人たちの優れた技術に改めて感嘆せざるをえません。


五万堀古道完堀全景(笠間市HPより)


郷土開拓の英雄・平将門伝説と古代官道

今から1100年前の東国は、坂東と呼ばれる未開拓の地でした。その荒地の開拓に農民たちと取り組んだのが平将門であったと伝えられています。将門は新しい時代を予期した馬牧の経営と製鉄による農具の開発などに取り組み、荒地の開拓を容易にしました。そうした進歩性が一族との争いを生み、その争いが国家権力との争いに発展し、豊かな郷土の実現を間近かにして敗れてしまいました(平将門の乱)。

 将門は新皇を称したため朝敵とされたりするなど、時代によって評価はまちまちですが、関東各地には多くの将門伝説が残されていますし、こうした将門伝説には、その夢の実現を見ずに散った悲劇性と庶民の願望が、今日まで語り継がれています。

 さて、将門の乱は939年(天慶2年)11月に始まり、翌年の2月には終了した、きわめて短期間の事件であったのですが、何とこの短い期間に、将門は常陸国府、下野国府、上野国府、武蔵国府、相模国府、下総国府と転戦しました。現在のような高速道路もなく、舗装された国道もない時代に、大勢の武装した武士たちが、これだけの距離を短時間に移動できたのはなぜなのでしょうか。

 考古学者の近江俊郎氏は、著書『日本の古代道路(角川選書)』において、当時、平将門集団がこれだけの長距離を短時間に移動できたのは、駅路が整備されていたからであると説きます。駅路は幅が広く、直線性に優れた交通インフラとして、古代の人・物の移動を大きく支えていたのです。

 移動の容易性をもたらした道路は、この後、新たな武士の時代を切り開いていくこととなります。


 将門公と史跡(坂東市)↓


 岩井将門まつり(坂東市観光協会)↓


 神田明神↓


平将門の進軍経路(『日本の古代道路』近江俊秀より)


平将門の胴塚(延命院)、平将門公之像、國王神社、石井の営所(島広山)


(今回の舞台)


(2022年1月30日)

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