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古代「三河国」インフラ考<穂の国「東三河」②>

★朝廷(ヤマト王権)による古代「三河国」の統治は、古代官道(交通インフラ)や条里制(農業インフラ)、そして仏教寺院(宗教インフラ)によって支えられていました。


古代「三河国」の誕生

 三河国一宮「砥鹿神社」が鎮座する豊川市には、「国府(こう)」という名古屋鉄道(名鉄)の駅があります。「国府」という地名は、かつての愛知県宝飯郡(ほいぐん)国府村を前身としており、古代「三河国」の国府(こくふ)がこの地に存在していたことに由来します。

 前回のコラムで、「律令国家が完成される以前、豊橋市を含む愛知県東三河地域は「穂国(ほのくに)」と呼ばれていました」と書きましたが、歴史的には、この後、穂国と三河国(現在の西三河地域。時代によって三川→参河→三河と表記変化あり)とが一国になり、令制国の「三河国」が誕生することになります。


律令体制下の地方統治機構

 大宝律令(701年)の制定によって、わが国は本格的な国家体制(=中央集権国家)と地方行政組織を整えました。地方は、国・郡・里(郷)に編成され、国司・郡司・里長がおかれました(国郡里制)。郡司には従来からの在地支配者である国造(くにのみやつこ)などの地方豪族が、里長には地元農民の代表者が就き、いずれも任期はありませんでしたが(世襲的に任命)、最上位の国司については、中央の官人が任期付きで派遣されました。また、官道「七道駅路」を整備することによって、地方の政務は朝廷(ヤマト王権)によって絶えずグリップされていました。

 他にも、戸籍に基づく徴税(租・庸・調)や班田収授(口分田)の仕組み、それを支える条里制(田地の区画整理)など、律令制度は、天皇(朝廷)を中心にそれ以外の支配対象を制御するという典型的な「中央集権国家」の成立を図るものでした。

 令制国「三河国」が誕生したのはこの時で、三河国の国庁(政庁)の遺構(三河国府跡)は、豊川市白鳥町で見つかっています。また、国府跡周辺には、砥鹿神社を除く三河国内のすべての神を祀る総社(三河総社)や、仏教の教えにより国家の平安を守ろうと考えた聖武天皇の詔(みことのり)により建てられた国分寺と国分尼寺(こくぶんにじ)の跡も残されています。現在の豊川市域は、古代「三河国」の政治・経済・文化の中心地でありました。


 三河国府跡/豊川の歴史散歩|御津町商工会


 総社/豊川の歴史散歩|御津町商工会


 三河国分寺跡/豊川の歴史散歩|御津町商工会


 三河国分尼寺跡/豊川の歴史散歩|御津町商工会


 三河の国府と地方政治/とよはしアーカイブ|豊橋市



三河総社(豊川市白鳥町)①


三河総社(豊川市白鳥町)②


三河国府跡(豊川市白鳥町)

※白鳥遺跡。曹源寺境内、手前の空閑地に正庁が位置した。


三河国分寺塔跡(豊川市八幡町)


三河国分尼寺跡(豊川市八幡町)


律令国家を支えた古代の高速道路「古代官道」

 古代律令制において定められた官道「七道駅路」。朝廷が求めたその役割は、第1に有事の際の迅速な情報伝達、第2に軍隊の移動、第3に公用役人の移動、第4に租庸調による貢納物の輸送でした。

 馬による通行が主体であった「駅路」は、目的地を最短距離で結ぶため、可能な限り直線的に造られていました。また、駅路には、約16kmごとに駅家(うまや)が設けられ、道路幅員は 12mにも及んだことが発掘調査からわかっています。

 三河国内の東海道には、鳥捕(ととり、現在の岡崎市宇頭町/矢作町)、山綱(やまつな、現在の岡崎市山綱町)、渡津(わたむつ、現在の豊川市小坂井町)という3箇所の駅家が設けられ、東海道は豊川(当時は飽海川あくみがわ)の河口部「志香須賀(しかすが)の渡」を舟で横断していたようです。

 なお、武部健一氏(1925-2015)は、駅路には、現代の日本列島を走る高速道路網と、下記のようないくつかの共通点があると指摘しています。(武部健一、「第二章 律令国家を支えた七道駅路」、『道路の日本史』〈中公新書〉、中央公論新社、2015年5月25日)

 ①路線延長が国土開発幹線自動車道建設法で計画された路線延長(6500km、北海道除く)に近い。

 ②路線構成が似ている(東海道=東名高速、東山道=中央道、・・・)。

 ③駅路の通るルートが、高速道路と同じような場所を通る。

 ④駅家のあった場所は、高速道路インターチェンジ (IC) と位置が近い。

 ⑤道路網としてのネットワーク機能(リダンダンシー)を持たせている。

 とりわけ、①~③については、高速道路と駅路が「遠くの目的地に向かって計画的かつ直線的に道路を結ぶ」という共通の目的を有していた結果であると指摘しています。繰り返しになりますが、駅路は馬による通行が主体であったことから、目的地を最短距離で結ぶ直線的なルートが選ばれました。これに対して、江戸時代の五街道・脇街道および、明治時代以後に定められた国道(一般国道)は、宿場や市街地を通って地域の道路を結びつけた路線からなっており、とりわけ江戸時代は、道が多少屈曲していても、徒歩の旅行者が容易に行き来できる経路が選ばれたとのことです。


 七道駅路/古代の道/道路の歴史|国土交通省


 七道駅路の幅員について/古代の道/道路の歴史|国土交通省


 五畿七道と駅伝制/古代の道/道路の歴史|国土交通省


 志香須賀の渡と東海道/とよはしアーカイブ|豊橋市


 読む-06/東海道五十三次全踏破-神谷政明著|株式会社清水工房・揺籃社


律令国家を支えた農業インフラ「条里制」

 古代律令国家を財政的に支えたシステムが班田収受制であったことは論を俟たないところですが、戸籍に基づく徴税(租・庸・調)や班田収授(口分田)の仕組みをハード面で大きく下支えしたのが条里制でありました。

条里制は、土地の区画を規則的に編成し、1町(約109m)四方の区画を1坪とし、坪を横に6個並べて1里、縦に6個並べて1条とした土地区画制度です。坪は道路および水路に接し、圃場機能を十分備え得るように考えられていました。古代・中世の開発は条里制とともに進行し、条里の形態から当時の開発状況を知ることができます。

 技術的な考察を加えると、整然と区画された水田を整備するためには、各区画を完全に水平にするとともに、しかも灌漑のための高低差をつくらなければなりません。つまり、律令国家が成立した古代日本において、既に条里制を具現化することのできる高度な土木技術があったということが分かります。

 三河国(うち東三河地域)の条里制遺構は、国府の置かれていた豊川市内(音羽川下流域など)や豊橋市内(賀茂・下条・大村地区など)において、以前はかなり広範囲にみられたようですが、現存するものはほとんど無いようです。


 条里制ってなんだろう?|群馬県埋蔵文化財調査事業団


 班田収授と条里制遺構/とよはしアーカイブ|豊橋市


鎮護国家思想と行基伝承(仏教寺院というインフラ)

 聖武天皇(在位724~749年)の治世・天平年間は、災害(地震・凶作)や疫病(天然痘)が多発した時代でした。このため、聖武天皇は仏教に深く帰依し、仏教の力で国家を守ろうとしました(鎮護国家の思想)。具体的には、741年(天平13年)に国分寺建立の詔を出して、令制国ごとに国分寺・国分尼寺を造らせるとともに、743年(天平15年)には東大寺盧舎那仏像の造立の詔を発出しています。

 また、この時代には行基や鑑真といった僧が仏教を広めた時代でもありました。行基(668~749年)は当初、朝廷より民衆を惑わす妖僧とされその布教活動が弾圧されましたが、寺院の開基や布施屋(一時救護・宿泊施設)の建設、公共事業(農業用の池や溝を掘り、道を拓き、橋を架けるなど)といった利他行の実践を通して、民衆だけでなく、やがて朝廷の信頼をも得るようになっていきました。

 三河国(うち東三河地域)にも、普門寺(豊橋市雲谷町)、赤岩寺(豊橋市多米町)、財賀寺(豊川市財賀町)など、行基が開基したとの伝承が残る寺院が今も民衆の信仰と尊敬を集めています。


 行基による公共事業/国土交通白書 2014|国土交通省


 普門寺


 赤岩寺


 鎌倉仏教の広がりと寺院/とよはしアーカイブ|豊橋市


普門寺(豊橋市雲谷町)


赤岩寺(豊橋市多米町)


(今回の舞台)



(2023年04月09日)

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