『碑に込められた願い』島原大変肥後迷惑
★寛政4年(1792)に生じた普賢岳の火山活動により前山(眉山)が崩壊し、それにより引き起こされた大津波は肥後の有明海沿岸地域にも甚大な被害をもたらした。八代平野を干拓した鹿子木量平は、ここでも大いに活躍している。
225年前の今日(寛政四年四月一日、西暦1792年5月21日)、雲仙普賢岳の火山活動により前山(眉山)が崩壊し、それにより引き起こされた大津波は両肥(肥前・肥後)の有明海沿岸の村々を襲った。のちに「島原大変肥後迷惑」として、日本の火山災害の歴史において最大の死者を出した(およそ1万5000人が亡くなった)大災害として記憶されてきた事象である。熊本県の災害碑(供養塔や記念碑)のなかで、同一の災害による碑の建立数が群を抜いて多いのがこの津波災害である。 『トピックで読む熊本の歴史』(岩本税・水野公寿編)は、「島原大変肥後迷惑(の大津波)」を次のように説明している。 「寛政四年(一七九二)四月一日島原半島の眉山(前山)が噴火して津波をひき起こし、島原半島はもちろん肥後の有明海沿岸が大被害を受けたことをこう呼んでいる。 寛政三年秋ころから島原半島では連続性地震に見舞われていた。翌四年三月一日熊本では地震が六〇回を数え、雲仙岳の噴煙が観測されていた。四月一日の夕刻二度の大地震とともに眉山が崩壊した。島原半島山麓の村は岩石流にまきとまれて海中一里あまりに押し流され、津波をひきおこし島原・肥 後の治岸を襲った。 四月九日に肥後の使者として島原に入った後藤太兵衛は覚書に「当正月中旬より地震打続き追々強く相成り、三月朔日などは至て強く(中略)下旬ごろに至て少々間遠に御座候処(中略)四月朔日の夜暮ころより大地震、前山海に崩れ込み、山水・海の潮を一時に巻上げ(中略)高波にて御城下町在家等悉く打崩し、人数弐万人余死、家数二千軒余、御船蔵等も打崩し(中略)前山海に崩れ込候間、新に出来申候山・小山共に八拾余り、山長さ壱里余島に成申候由、未だ其辺沸り申候由(後略)」と記している。 これは直後混乱期の聞き書きであり、被害状況については諸説あるが、『天草近代年譜』によると肥後藩の被害として溺死者五五二〇人、流失家屋二二五〇軒としている。惣庄屋たちからの報告によると溺死者数は玉名郡二二二一人、宇土郡一二六三人、飽田郡一一六六人、その他一四〇人となっている。田畑の流失はニ〇〇〇町余、減収は三六万九〇〇〇石にのぼった。 天領の天草では一八ヵ村が被害をうけ溺死者三四三人、怪我人七〇七人、流失家三七三軒、死牛馬 一〇九頭、田畑損壊六五町余であったという。寛政七年天草郡苓北町に「両肥溺死萬霊碑」が建立されているが、溺死とはこの時の死者たちである。」
1792年の島原大変肥後迷惑(いさぼうネット)↓ http://isabou.net/knowhow/colum-rekishi/colum07.asp
寛政の津波供養碑(宇土市デジタルミュージアム)↓ http://www.city.uto.kumamoto.jp/museum/pro/kinsei/kanseinotunamikuyouhi.html
(島原大変肥後迷惑:国土交通省雲仙復興事務所パンフレットより)
(「有明海沿岸の死者・行方不明者」国土交通省雲仙復興事務所パンフレットより)
(寛政の津波供養塔:宇土市戸口町)
(託麻郡の津波供養塔:熊本市西区小島)
(自然石の津波供養碑:熊本市西区河内町河内)
※約100人が亡くなったとされる(河内町河内)塩屋では、災害の教訓を受け継ごうと、毎年、犠牲者慰霊祭が開催されている。今年も4月2日に地元自治会や漁協、消防関係者ら約30人が参加して執り行なわれ、犠牲者に対して鎮魂の祈りがささげられた。
(津波供養塔:熊本市西区河内町船津)
(津波供養塔:熊本市西区河内町船津)
(津波供養碑:熊本市西区河内町船津「蓮光寺」)
(扇坂千人塚供養塔:玉名市岱明町扇崎)
(古墳改葬の碑:長洲町「新山墓地」)
※長洲町では津波により約600人が溺死し、長洲小学校近くの寺に埋葬されたが、明治24年に新山墓地に移され、昭和14年にこの『古墳改葬之碑』が建てられた。
(長洲から島原半島を望む)
島原大変肥後迷惑の経験(鹿子木量平の伝記)は、本県(熊本県)の道徳教育用郷土資料『熊本の心』に、『碑に込められた願い』というタイトルで採録されている。 【道徳教育用郷土資料『熊本の心』から】 『碑に込められた願い』-中学校- 熊本市河内町船津地区に、だれからも知られることなくひっそりと一つの石碑が建っています。 この石碑には、今からおよそニニ〇年前のある一人の人物の切なる願いが込められています。
鹿子木村(現在の熊本市鹿子木町)庄屋の鹿子木量平は、寛政四(一七九ニ)年四月一日のこと、夕食を済ませた後、行灯の下で読書をしていた。その時、足下にかすかな揺れを感じ、少しの間を置いて遠雷のように響くぶきみな地鳴りを聴いた。量平は胸騒ぎがして、書物から目を離し、「何事もなければよいが・・・。」とひとりつぶやいた。 翌朝、屋敷を出ると、村の辻々に人々が集まリ、口々に海辺の村に多くの死者が出たとうわさしているのを聞いた。「人を惑わすようなうわさ話をするものではない。」とひとたびは村人をたしなめたものの、量平は昨日の地鳴りが気になった。じっとしておられずに、真偽を確かめるために金峰山の峠を越えて、海辺の村々の見えるところへと馬を走らせた。林を抜けると、急に視界が広がった。眼下に広がる有明海のかなたに、悠然と雲仙岳がそびえている。しかし、いつもの風景とは何かが違っていた。量平は目を凝らして見て、わが目を疑った。そこには、雲仙岳の手前にある前山が、大きく崩れて白い岩肌が露出していた。 量平は、身震いをしながら「何ということだ。これでは島原の港はひとたまりもあるまい。」とつぶやくとともに、「まさか・・。」という思いで、金峰山のふもとにある河内村船津方面へと向かった。 河内川に沿って清田まで下ってくると、あたりには木や竹やがれきが散らばり容易に前に進むことができなくなった。半里ほど先の海沿いの船津村とおぼしき場所にも、民家は一軒も見られなかった。強い不安が沸き起こった。注意深く辺りを見渡して「あっ!」と思わず声を上げた。一人、また一人と、がれきの間に人が倒れていた。ふと気が付くと、かたわらに眠っているような幼い子どもの顔が見えた。「しっかりしろ。だいじようぶか。」と、抱き起こしてみたがすでにこと切れていた。 「これは大事だ。崩れた前山が海に落ち、その衝撃で対岸に津波が押し寄せ、村を根こそぎ襲ったに違いない。人々のうわさは本当だったのだ。」量平は、昨夜の不安が的中したことにほぞをかんだ。 すぐに引き返し郡役所に行ってみると、役所ではすでに救援隊を差し向ける準備が始まっていた。 量平は、郡代(奉行)から有明海沿岸部の村々の被害の状況を調査するようにとの命令を受けた。 量平は、被害を受けた村々で、生存者への聞き取りを行うとともに、死者やけが人の把握に奔走した。その結果、四月一日の酉の刻頃、地震と遠い地鳴りの音の後、ほどなく津波が押し寄せたこと。津波は一波ではなくニ波、三波と押し寄せ、被害を広げたことなどが分かった。その後の調べでは、島原で一万人、そして肥後でも五千人にも及ぶ死者が出るという想像を絶する災害であったことが判明した。被害のあまリもの大きさに量平は、改めて津波の恐ろしさを実感した。
翌寛政五(一七九三)年、人々の生活もようやく落ち着きを見せ始めたのを機に、藩は被害の大きかった玉名・飽田・宇土の三郡に、それぞれ津波の犠牲者の霊を慰める供養塔の建立を命じた。この供養塔の下には、犠牲者の一人一人の名前を記した書付を壷に入れたものが納められた。 また、被害を受けた村々では、それぞれの思いを込めた供養塔が建立され始めていた。 一方、量平は寛政の大津波における迅速で適切な対処が認められ、鹿子木村庄屋から飽田・託麻郡代役所の役人に抜てきされていた。豊平も、それまでの被害状況の聞き取りから、後世に伝えるべき教訓があるように思われ、石碑の建立を思い立った。量平の話を聞いただれもが賛同してくれた。それのみか、必要であれば資金の援助も惜しまないと多くの人々が協力を申し出てきた。量平は、胸が熱くなった。 寛政七(一七九五)年六月、郡代あてに提出された願出には次のように記されていた。 「足の弱い人や幼い者は、早めに逃れて難を避けることができたが、かえって元気な者が船をつなぎ留めたり、家財を取リに行ったりして、助かる命をも亡くしたものが多くいた。津波災害から逃れるには、高台にいち早く逃れることである。ついては、被害の大きかった船津村にこの出来事を忘れることがないように、石碑に刻み多くの人々が行き交う道路沿いに造立したい。石エ料やその他一切の費用は、寄付の申し出があり藩への負担はかけないので、建立の許可をいただきたい。」 郡代は、量平の願いを受け入れ、早速詩歌に優れたオの持ち主である藩校時習館教授の高本紫溟に碑文作成を依頼した。願出を読んだ紫溟もまた、量平の志に感銘を受け、こん身のカを込めて碑文の作成に当たった。 寛政七(一七九五)年十月、ついに量平が願った津波教訓碑が船津村の道沿いに完成することになり、多くの人々が集まってきた。量平は、あらためて感慨を込め碑文を眺めた。 「海岸に寄せ来る津波の音に驚いて、逃げ出そうとした者のうち、船をつなぎに行ったり、家財を取リだそうとして命を亡くした者もいた。何ごとにもこだわらず、速やかに逃げた者は助かった。もしも、後の世に同じような津波が襲ったときは、すべてのことに優先して、ただお年寄リを助け、幼い子どもを連れて直ちに避難しなければならない。かねてより逃げ道を確かめておき、いざという時になって、迷うようなことがあってはならない・・・。」 量平は、本碑の建立が多くの人々の協力で完成したことが、何よリもうれしかった。 量平は、集まった人々に対して、一言一言をかみしめるように語りかけた。 「このような災害が起こった時には、目先の欲にとらわれず弱き人を助けて、速やかに高い場所に避難して欲しいのです。日頃よりどのように逃げればよいのか考えておいて欲しいのです。二度とこのような災害で貴重な命が失われではならない。この災害を忘れることなく、親から子へと、この教訓を語り継いでいかねばなりません。」
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鹿子木量平は、飽田郡鹿子木村(現在の熊本市鹿子木町)の庄屋弥左衛門の子。名は維善といい、通称幸平。のちに量平と呼ばれた。鹿子木村の年貢納入責任者、鹿子木村・西梶尾村庄屋となった。寛政四(一七九二)年の津波の後片付けにカを尽くし、飽田・ 託麻郡代役所の役人になる。同八(一七九六)年、熊本の大水害には率先して救助に当たった。同九(一七九七)年、下益城郡杉島手永惣庄屋になり、水利改善などによって生産を向上させた。以後八代郡野津、高田手永、飽田郡五町手永惣庄屋を歴任、八代海の百町・四百町・七百町新地築造にカを注ぎ、新地一〇〇石の知行取に登用され郡吟味役となった。
(今回の舞台)
(2017年5月21日)
関連ページ(熊本国土学) <第53回>八代平野を干拓した鹿子木量平と清正公信仰(2017/04/02)