美濃路をゆく<尾張国土学⑥>
★美濃路は、江戸と京都・大坂を結ぶ基幹道路の一部を担う「美濃路廻り」ルートとして、また近世以降の尾張名古屋の発展の礎となる都市交通軸として、極めて重要な役割を果たしました。
美濃路ルートの歴史
美濃路は、東海道の宮宿(熱田宿)から名古屋宿・清須宿・稲葉宿・萩原宿・起宿(以上、尾張国)・墨俣宿・大垣宿(以上、美濃国)を経由して中山道の垂井宿に至る江戸時代の脇往還(脇街道)のことで、その原型は「古代(大化当初)における東海道から尾張国府を経由して東山道の不破関(美濃国)に至るルート」であったと考えられています。
また、尾張国内の鎌倉街道(中世の東海道/経路は沓掛~鳴海~熱田~萱津~折戸~黒田・玉ノ井)との関係で言えば、鎌倉街道の一部が、江戸時代に美濃路として再整備され、幹線交通軸として機能したと言えますが、ルート的には鎌倉街道が後の岐阜街道(御鮨街道)に近い経路であったのに対して、美濃路はそれより南西寄りのコースを辿っていました(起宿で木曽川を渡っていました)。
そして個人的に興味深いと思うことは、東海道新幹線や東名・名神高速道路といった現代の「高速東海道ルート」が美濃路に沿って整備されているという事実です。
江戸時代の美濃路の役割
今回のブログ作成にあたり最も参考にさせていただいた書籍『街道今昔美濃路をゆく(日下英之/監修、風媒社、2018)』に記述されていることですが、美濃路は「東海道の宮宿(熱田宿)から中山道の垂井宿に至る約15里の街道」として捉えるのではなく、江戸と京都・大坂を結ぶ基幹道路(大動脈)の一部を担っている「美濃路廻り」と理解した方が良いのだと思います。
実際、江戸と京都・大坂を結ぶ基幹道路には東海道と中山道がありましたが、垂井(美濃国)以東の中山道を利用するケースを除いて考えれば、その主なルートは、①東海道をそのまま西進するルート(七里の渡しルート)、②東海道の七里の渡しを迂回するルート(佐屋路ルート)、③「美濃路廻り」で東海道から中山道に渡るルート、の3つに集約できます。
距離だけを比較すると、熱田~草津までの距離は、①が31里余、②が40里余、③が31里半余と、東海道(七里の渡し)ルートと美濃路廻りルートでは大差ありませんでしたが、①が幕府の最重要基幹道路(五街道の筆頭)であったのに対して、②と③はあくまでも①の支線(脇街道)でしかなく、宿駅の規模に大きな違いがあったことなど、どのルートにもメリット・デメリットはあり、江戸時代の移動はその時々の事情に応じて使い分けられていたようです。。
東海道(七里の渡し)ルートのメリットは、何と言っても高速性。順調であれば3時間程度で宮宿(熱田宿)から桑名宿まで船で移動することができました。また、晴れた日には、海から見た絶景が期待できる旅の名所でもありました。これに対して佐屋路ルート(次回のブログで取り上げます)は、移動時間はかかるものの、海路のリスク(天候次第で船が出ない日がある、船が出ても安全・快適とは言えない場合があるなど)を回避することができる点で、七里の渡しの迂回路として盛んに利用されていたようです。
これらに対して、美濃路廻りルートの最大のメリットは東海道の難所(七里の渡しや鈴鹿峠)を避けることが出来る点にあり、渡河部を除く全ての区間を陸路にて比較的安全に移動することができました。朝鮮通信使や琉球使節の移動や、将軍家に献上される像の長崎から江戸迄の移送が美濃路廻りであったことは、このルートの特徴をよく現しているのだと思います。一方で、美濃路やその先の中山道垂井宿から守山宿までの人馬数は東海道の半分(50人50疋)しかなく、休憩施設も本陣・脇本陣が各一軒という宿駅が多数で、旅籠屋の数も東海道の平均的な数の半分にも満たない宿駅が多かったことから、参勤交代の大名に限れば西国大名の多くは東海道ルートを利用していました。
また、名古屋城下の中心部に引き込まれた美濃路の存在は、名古屋宿(札の辻)で分岐する木曽街道や下街道、飯田街道(駿河街道~伊那街道)、さらには支線の津島上街道・八神街道・岐阜街道・巡見街道などとネットワーク化されることで、近世以降の尾張名古屋の発展に極めて重要な役割を果たしました。
美濃路の風景
近代に入って、主要な交通機関が鉄道や自動車に置き換わった(高度化された)こと、街道沿線の市街化が進んだこと、更には濃尾地震による被害で宿駅時代の建築物の多くが倒壊してしまったことなどから、美濃路の風景は江戸時代に比べて大きく変わりましたが、旧街道に残された史跡や町並みを通して往時を偲ぶことはできます。
時を旅する 愛知の街道|愛知県
美濃路|Network2010.org
美濃路|愛知,名古屋の東海道を趣味で歩く会!愛知ウォーキング街道歩きクラブ
熱田神宮(名古屋市熱田区神宮)
四間道沿いの町並み(名古屋市西区那古野)
※美濃路の一本西側の通り「四間道(しけみち)」の界隈は、名古屋城築城(1610年)とほぼ同時期に開削された堀川の舟運を利用する商人の活動とともに発展したまちで、土蔵や伝統的な建造物が現在も数多く残されている。
四間道町並み保存地区|名古屋市 https://www.city.nagoya.jp/kankobunkakoryu/page/0000080120.html
美濃路道標(庄内川左岸:名古屋市西区枇杷島、右岸:清須市西枇杷島町)
清須宿本陣跡(清須市清洲)と清洲城(同朝日)
※徳川家康の城下町移転(清須越)によって一旦消滅した清須の町は、脇街道・美濃路の宿駅として再生したという歴史を持つ。現在の清須城(模擬天守)は平成元年に当時(清須越による廃城前の城)を模して再建されたもの。
四ツ谷追分跡と長光寺門前に移設された道標(稲沢市)
※かつて美濃路と岐阜街道(旧鎌倉街道筋)との分岐点「四ツ家追分」にあった道標は、現在、長光寺の門前に移設されている。道標には「左京都道大垣道」「右ぎふ並浅井道」と刻まれていた。
尾張総社國府宮一ノ鳥居(稲沢市高御堂)
※美濃路のルートは、尾張総社國府宮の一ノ鳥居の真ん前を通っている。
稲葉宿問屋場址(稲沢市稲葉)と稲葉宿本陣跡ひろば(稲沢市小沢)
冨田一里塚(東塚と西塚;一宮市冨田)
※江戸時代に東海道宮宿と中山道垂井宿を結ぶ脇往環美濃路に築かれた一里塚で、道の両側に榎が植えられた塚が現存する(国指定史跡)。
起宿脇本陣跡(現・一宮市尾西歴史民俗資料館別館;一宮市起下町)
起渡船場跡(上の定渡船場、中の宮河戸、下の船橋河戸、木曽川の流れ;一宮市起堤町)
※美濃路の最大の難所は、日本有数の大河である木曽三川を渡ることであり、起には、「上の定渡場」「中の宮河戸」「下の船橋河戸」の3つの渡船場があった。
起宿の町並みと船橋の模型(尾西歴史民俗資料館)
※下の船橋河戸では,将軍上洛時や朝鮮通信使さらには象が渡るときなど数百艘の舟を横に並べて船橋を架けていた(起の船橋は全長約850m、船数は270艘を越える日本最大の船橋であったと記録されている)。
(今回の舞台)
(2024年03月31日)
関連するブログ: