松原用水と酒井忠次<穂の国「東三河」⑭>
★愛知県最古の農業用水施設「松原用水」。その起源は古く、1567年(永禄10年)に吉田城主・酒井忠次が橋尾村(現豊川市橋尾町)に井堰を築いたことに始まると伝えられています。
酒井忠次治世下の吉田
「♪え~び~すくい、海老すくい……♪」
気が付くと、ついつい口ずさんでしまうこのフレーズは、今年のNHK大河ドラマ「どうする家康」の中で活躍している徳川四天王の筆頭格・酒井忠次(演:大森南朋)の得意技「海老すくい踊り」の一節ですが、この酒井忠次は、1564年から約25年間吉田城の城主となるなど、東三河地域に縁のある戦国武将です。
酒井忠次(左衛門尉)[大森南朋]/登場人物/大河ドラマ「どうする家康」|NHK
吉田城について|豊橋市美術博物館
吉田城/郷土資料・特色あるコレクション|豊橋市図書館
吉田城主となった忠次は、「武田信玄」対策の重要な拠点である吉田城に新たな堀を築造し、軍事面での機能強化を図るとともに、この地の民政にも大きな足跡を残しています。結果、商工業も発達し、酒井忠次治世下の吉田は、名実ともに東三河の中心となっていきました。
【用水整備】
忠次は1567年(永禄10年)、確たる水源がなく、干害が頻発していた豊川右岸地域を拓くため、橋尾村(現豊川市橋尾町)に井堰を築いて、水利の安定を図ったと伝えられています(大村井水=現在の松原用水の起源)。
【豊川架橋】
忠次は1570年(元亀元年)、豊川の左岸・関屋口から対岸の下地(現在の吉田大橋のあたり)に土橋を架けましたが、これが豊川架橋の始まりであったとされています。その後(1590年)、池田輝正の時代になって、豊川を跨ぐ橋はやや下流の位置(現在の豊橋のあたり)に木橋として架け替えられ、こちらが江戸時代の東海道ルート(幕府管理の天下橋)として定着していきますが、いずれにしても豊川架橋はその後の吉田の発展に大きく寄与することとなりました。
【新田開発】
忠次は新田開発も奨励しました。1597年(天正7年)の酒井忠次新田開発免状(参州古文書)によると、横須賀原(現在の豊橋市横須賀町あたり)に開発された新田は、田は三年間、畑は一年間の年貢が免除されたとあります。
家康と吉田/豊橋の歴史/とよはしアーカイブ|豊橋市
豊川とともに生きる 下地町~豊橋(旧吉田橋)|豊橋市小学校社会科研究部
吉田城趾・鉄櫓
豊川架橋(手前が吉田大橋、奥が豊橋)
愛知県最古の農業用水施設「松原用水」
古くから水不足に悩まされてきた東三河地域。この地域には豊川を水源とする大規模な用水施設(豊川用水、牟呂用水)があり、これらによって豊かな農地(高師原・天伯原、神野新田など)が開発され、地域の発展に繋がってきたことは過去のブログ/神野新田の干拓と牟呂用水<『かがやく豊橋』⑨>/高師・天伯原の開拓と豊川用水<『かがやく豊橋』⑩>/で取り上げたところですが、さらにもう一つ紹介しなければならない用水施設(農業インフラ)があります。それが「松原用水」です。
松原用水は、豊川の牟呂松原頭首工を取水口として、牟呂松原幹線水路(5.3km)を経由、照山分水工で分水して松原幹線水路(9.5km)~支線水路(94.7km)を流れる農業用水施設で、現在、豊川右岸の水田地帯(約630ha)を潤していますが、前段で触れたとおり、その起源は1567年(永禄10年)に吉田城主・酒井忠次が橋尾村(現豊川市橋尾町)に井堰を築いたことに遡ります(※大村井水の開設時期については諸説あるようです)。
その後、堰の位置は上流の日下部村(現豊川市豊津町)、さらに上流の松原村(現豊川市松原町)、そして現在の牟呂松原頭首工(新城市一鍬田)へと移設されましたが、松原用水は今日まで450年以上にわたり豊川右岸の住民生活や産業を支え続けてくれています。
なお、この愛知県最古の農業用水施設(松原用水)は、取水口を同じくする牟呂用水とわせて「松原用水・牟呂用水」として、2017年(平成29年)10月10日に「世界かんがい施設遺産」に登録されています。
松原用水|松原用水土地改良区(水土里ネット松原用水)
450 年の歴史を刻んだ松原用水(東三河)の歴史地理学的研究|藤田佳久
↑松原用水の歴史的経緯等については、藤田佳久氏(愛知大学名誉教授)の優れた研究成果があります。
ネット検索してご確認ください。
牟呂松原頭首工(新城市一鍬田)
牟呂松原幹線水路(新城市一鍬田)
旧松原用水取水口人造石遺産①(豊川市松原町)
旧松原用水取水口人造石遺産②(豊川市松原町)
松原用水で潤されている農地(豊橋市大村町)
大村八所神社(豊橋市大村町)
※大村井水開削にあたって人柱となった8人の義士(庄屋)が祀られ、井組24か村の水神様として崇敬されています(八所神社の伝説)。
(今回の舞台)
(2023年07月09日)