神野新田の干拓と牟呂用水<『かがやく豊橋』⑨>
★豊橋の産業や市民生活を支えている代表的インフラ「神野新田と牟呂用水」。その実現にあたっては、神野金之助や毛利祥久を始めとする先人たちの苦労や努力がありました。
インフラ整備の重要性を学ぶ
現在、私たちが享受している安全で快適な生活は、先人たちが森林や田畑、鉄道や道路を整備し、川を治め、水資源を開発するなど、絶え間なく国土に働きかけを行うことによって、国土から恵みを返してもらってきた歴史の賜物です。したがって、現代に生きる私たちも、国土に対して働きかけを続け、将来世代に対して、より良い社会基盤(インフラストラクチャー)を引き継いでいかなければなりません。
ところが、わが国では、過去30年間、GDPや税収がほとんど伸びず、一方で社会保障支出は増加し続けており、結果、社会保障以外の支出はOECD(経済協力開発機構)諸国の中で、最低クラスの水準になっています。その中には、公共事業費(インフラ投資)や教育費など、現世代だけでなく将来世代にとっても極めて重要な支出が含まれています。
こうした状況から脱却するためには、国土への働きかけ(土木)やインフラの重要性に関する国民的理解の醸成が不可欠です。小学校・中学校・高等学校の教育を通して、次世代の日本を担う児童・生徒に働きかけていくことも重要なポイントであると思われます。
小学4年生の郷土学習「地域の発展に尽くした先人」
小学4年生の社会科には、「地域の発展に尽くした先人が、様々な苦心や努力により当時の生活の向上に貢献したこと」を学ぶ学習プログラムが含まれています。
学習指導要領・同解説によると、「ここでは、例えば、用水路の開削や堤防の改修、砂防ダムの建設、農地の開拓などを行って地域を興した人、藩校や私塾などを設けて地域の教育を発展させた人、新しい医療技術等を開発したり病院を設立したりして医学の進歩に貢献した人、新聞社を興すなど文化を広めた人、地域の農業・漁業・工業などの産業の発展に尽くした人など、「開発、教育、医療、文化、産業など」の面で地域の発展や技術の開発に尽くした先人の具体的事例の中から一つを選択して取り上げることが考えられる」とされていますが、ありがたいことに三つの教科書(東京書籍・教育出版・日本文教出版)とも、「開発」の面で地域の発展に尽くした先人をメインターゲットにして教材化してくれています。
例えば、東京書籍は、通潤橋(熊本県山都町の白糸台地に布田保之助らによって架けられた石橋)を学習素材として取り上げ、『谷に囲まれた台地に水を引く』というタイトルで、18 頁を割いて説明がなされています。
同様に、教育出版の教科書は「見沼代用水」(井沢弥惣兵衛為永が新田開発のために武蔵国に普請した灌漑農業用水)を、日本文教出版の教科書は「那須疎水」(栃木県北部の那須野が原に飲料・農業用水を供給する用水路。矢板武や印南丈作らの尽力によって整備された)を採録しており、いずれの教科書も十分なページを割いて、「地域の発展に尽くした先人が、様々な苦心や努力により当時の生活の向上に貢献したこと」を教えています。日本文教出版では、オプション教材として、手結港を開いた野中兼山(4 頁)、農村を立て直した二宮金次郎(尊徳)(2 頁)、玉川上水をつくった玉川庄右衛門・清右衛門兄弟(詳しめのコラム、2 頁)も紹介されています。
なお、この学習プログラムは、戦後の小学校の学習指導要領が、一貫して、児童の学習能力が高まった小学4年生の社会科において義務付けてきたもので、長年にわたり、土木・インフラの役割や重要性を学ぶ機会を提供してきました。
小学4年・社会科で学ぶ「水インフラ」「防災」「先人の働き」(建設マネジメント技術2022.7)
社会科副読本『かがやく豊橋』で学ぶ、神野新田の干拓と牟呂用水
豊橋市教育委員会が作成した小学校3・4年生向けの社会科副読本『かがやく豊橋』にも、「地域の発展に尽くした先人が、様々な苦心や努力により当時の生活の向上に貢献したこと」を学ぶ学習プログラムが含まれています。
第6章「きょう土の発てんにつくす」がこの学習プログラムに相当し、そこでは、(1)豊橋市の発てん(豊橋駅のうつり変わり/豊橋の糸の歴史/軍隊の町だった豊橋/豊橋市の広がり/交通の発達)、(2)神野新田のかんたくと牟呂用水(毛利祥久の苦労や努力/神野金之助の新田開発/神野新田と人々の暮らし/変わりゆく神野新田)、(3)糸の町 豊橋(製糸業のおこり/製糸業の発展/製糸業の衰え)、(4)高師・天伯原の開たくと豊川用水(荒地だった高師・天伯原/開拓の努力/土地を肥やす努力/水への願い/豊川用水の完成/日本一の農業の生産地へ)、(5)戦後の産業の発てん(戦後の復興/三河港の建設と臨海工業地域)について、詳しい学びの機会が提供されています。
これらのうち、今回は「神野新田の干拓と牟呂用水」を取り上げます。
社会科副読本『かがやく豊橋』(豊橋市教育委員会)の学習コンテンツ
神野新田の干拓と牟呂用水
神野新田のあらまし
現在、田畑が広がる豊橋市牟呂周辺地域一帯は「神野新田」と呼ばれていますが、ここは、明治時代に神野金之助によって整備された干拓地で、神野新田ができる以前、同位置には通称・毛利新田と呼ばれる干拓地がありました。
毛利新田は、毛利祥久(長州藩一門家老である右田毛利家の13代当主、第百十国立銀行頭取)によって整備された約1100町歩(1町歩は、ほぼ1ヘクタールと同じ)の巨大干拓地でしたが、完成から間もない1891年(明治24年)の濃尾地震、翌1892年(明治25年)秋の暴風雨・高潮によって、堤防が壊滅的な被害を受けたことから、修復の目途が立たず、再築は断念されました。
1893年(明治26年)、この土地を買い取ったのが八開村(現在の愛知県愛西市)出身の事業家・神野金之助で、長い年月と巨額の費用が投じられ、新田・用水の修復が行われました。修復にあたっては、毛利新田の経験(失敗)を踏まえ、①人造石を採用する、②堤防を以前より高くする、③海面側の堤防の角度をより急にするといった改善策が講じられました。また、神野新田の開発とあわせて、牟呂用水の建設も進められました。この時、整備された総延長約12kmに及ぶ堤防のうち、特に重要な堤防上には、大日如来を起点として、100間(約180m)毎に合計33体の観音様が建立されました。この33体の観音様は「護岸観音」として親しまれ、今も新田の安全を見守っています。
1896年(明治29年)の完成から120年以上が過ぎた現在、周辺地域では、三河港や国道23号バイパス等の交通インフラの整備と相まって、数多くの企業立地も進んでいます。神野新田は今や農業だけでなく、工業地帯としても発展し、豊橋の産業に欠かすことのできない存在となっています。
神野新田資料館|豊橋観光コンベンション協会
神野新田の歴史と金之助の偉業を知って 豊橋美博で企画展(2022.05.11掲載)|東愛知新聞
牟呂用水のあらまし
牟呂用水(牟呂松原用水牟呂幹線水路)は、新城市一鍬田の牟呂松原頭首工で一級河川・豊川から取水した後、豊川左岸の台地の端を地形に沿って流れ、やがて豊橋の市街地を二分、最終的には神野新田を潤して、二級河川・柳生川に合流する農業用水路です。
その建設の歴史は今から136年前の1887年(明治20年)2月に、日常的な干ばつに苦しんでいた賀茂村・金沢村・八名井村の三か村が、一鍬田村(海倉淵)から賀茂村(二本杉)に至る約8kmの賀茂用水の開削を愛知県に出願、同年4月から自ら資金調達し、村民総出による開削をスタートさせたことに始まります。
賀茂用水は同年7月に完成しましたが、同年9月の暴風雨襲来のため壊滅的な打撃を受け再使用不能となったようです。しかし、ちょうどこの時期、毛利祥久が新田(毛利新田)を開くための水源を賀茂用水に求め、三か村との共同引用の交渉が成立したことから、同年11月には祥久による賀茂用水約8kmの修復と賀茂村から牟呂村までの約16kmの大用水路の開削がスタートしました。
そして、翌1888年(明治21年)6月、賀茂村から牟呂村までの約16kmの大用水路が完成し、牟呂用水と命名されたのでした。
しかし、1891年(明治24年)10月の濃尾地震、翌1892年(明治25年)秋の暴風雨・高潮によって、祥久の用水・新田事業の継続は断念を余儀なくされました。その後、牟呂用水の再築工事は神野金之助に引き継がれ、1894年(明治27年)12月に完成をむかえることになったのです。
19世紀末から度重なる苦難を乗り越えてきた牟呂用水は、適切な水管理のもと、現在も約970haの農地へ恵みの水を送り続けています。そして2017年(平成29年)10月10日、牟呂用水は松原用水とともに世界かんがい施設遺産に登録されました。
牟呂用水の流れ|牟呂用水土地改良区
牟呂用水の歴史|牟呂用水土地改良区
世界かんがい施設遺産登録|牟呂用水土地改良区
神野新田の風景
牟呂用水
神野新田の歴史(資料館展示)
神野金之助・神野三郎・服部長七(資料館展示)
毛利新田に対する堤防の改良(企画展展示)
今も新田を見守る観音さま(企画展展示)
神野新田の史跡を巡る
神野新田紀徳之碑
牟呂神富神明社
護岸観音
(今回の舞台)
(2023年02月26日)