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高師・天伯原の開拓と豊川用水<『かがやく豊橋』⑩>

★先人たちの献身的な郷土への働きかけによって、豊橋市南部地域は、全国トップクラスの生産額を誇る日本有数の農業地域に発展しています。


豊橋の地形(まちなかから表浜海岸まで自転車で南下する)

 以前にも触れましたが、豊橋市は、弓張山地(東)、三河湾(西)、太平洋(南)、一級河川・豊川(放水路)(北)に囲まれた自然豊かなまちです。地形はおおむね平坦で、東の山地や丘陵地から西の三河湾へと緩やかに傾斜しています。

 しかし、実際に自転車(ママチャリ)で市内を巡っていると、道路の勾配が気になる箇所が少なくありません。その典型的なケースが、まちなかを出発して表浜海岸まで南下するルート上にある勾配です。二級河川・柳生川を越えて、JR東海道本線・新幹線を跨ぐあたりから上り勾配がきつくなり、高師原(台地)の市街地を通過した後、一旦は二級河川・梅田川に向かって快適な時間(下り勾配)があるものの、渡河後は「立ち漕ぎ」や「手押し」を余儀なくされる上り勾配が一般国道42号(表浜海岸の手前)まで延々と続くことになります。この区間が天伯原(台地)で、キャベツ畑やビニールハウスの風景が広がっているほか、宅地開発も進んでいます。

 豊橋市の標高図を見るとよく分かりますが、高師原(台地)は標高20~30m程度の台地ですが、天伯原(台地)の南の方は50mを超える標高があります。

 

 豊橋市標高図|豊橋市



高師原(豊橋市西幸町)/宅地の中にキャベツ畑が残る


天伯原(豊橋市天伯町)/開発が進む


高師原・天伯原の歴史(軍の演習場から大規模開拓へ)

 高師原・天伯原は、やせた酸性土壌で水利施設もなかったことから、江戸時代以前は、村落周辺の小規模な耕地を除いて、荒涼とした原野が広がっていました。そんな中、明治時代に入って、高師原・天伯原は土地が比較的平坦であることから、軍事訓練施設として見込まれることとなり、1908年(明治41年)に豊橋(当時の高師村など)に第十五師団が設置されると、第十五師団の敷地と接続する梅田川右岸に高師原演習場が、梅田川左岸に広大な天伯原演習場が設置されることとなりました。第十五師団は1925年(大正14年)に廃止されますが、演習場としての使用は終戦まで続きました。


 高師原・天伯原陸軍演習場|豊橋市美術博物館


 戦後、高師原・天伯原一帯は、食料増産と失業対策を目的として大規模な開拓事業が進められました。しかし、(既に述べたように)この地はもともと荒れ地で、土壌は酸性が強く有機質に欠けており、また丘陵地帯のために水の確保も難しく、農地には適していなかったことから、入植者の方々の苦労は並大抵のものではなかったようです。


社会科副読本『かがやく豊橋』で学ぶ、高師・天伯原の開拓

 豊橋市教育委員会が作成した小学校3・4年生向けの社会科副読本『かがやく豊橋』は、高師・天伯原の開拓の物語(地域の発展に尽くした先人が、様々な苦心や努力により当時の生活の向上に貢献したこと)を次のように詳しく伝えています(第6章第4節「「6.きょう土の発てんにつくす(4)高師・天伯原の開たくと豊川用水」に掲載)。



社会科副読本『かがやく豊橋』(豊橋市教育委員会)の学習コンテンツ



御幸神社の花祭と開拓の記憶

 愛知県奥三河地方には、約700年前から伝承されている「花祭」という神事があります。国の重要無形民俗文化財にも指定されている花祭は、悪霊を払いのけ、神人和合、五穀豊穣、無病息災を祈る目的で毎年旧暦の霜月に執り行われており、少年の舞、青年の舞、鬼の舞など、数多くの舞と神事が夜通し行われています。

 この「花祭」を起源とする花祭(神事)が、ここ豊橋市内でも行われています。豊橋市西幸町に鎮座する御幸神社で毎年1月4日に催行されている花祭がそれで、戦後、奥三河地方(主に豊根村)から豊橋に移住した人たちが、故郷の地で行われていた花祭を移住先(開拓地)の豊橋で行う様になったものです。

 御幸神社は、1949年(昭和24年)に三河国一宮砥鹿神社(豊川市一宮町鎮座)の分神を主神とし、開拓のために入植した豊根村分村者の各集落の氏神、地元西口町の神社の分神、ダム建設のため水没した集落の氏神をも合祀して、開拓地の守護神として(集団の精神統一の社として)建立された神社で、境内には岩西開拓団の開拓記念碑が建てられています。

 また、豊橋市天伯町に鎮座する天伯山神社(1950年(昭和25年)に陸軍神社を迎え入れ、天伯山神社として住民有志一同によって祀られた。御祭神は大国主命と天照皇大神)の境内には、天伯原開拓30周年を記念して1976年(昭和51年)に建てられた「土に挑む男」の像(荒野を切り開いた開拓者の姿を表している)があり、銅像の裏には開拓の歴史やそれに関わった人たちの名前が記されています。

 その後、高師原・天伯原の開拓地は、入植者のたゆまぬ努力と豊川用水の通水などによって、今では全国でも有数の農業地帯となっています。


 御幸神社特殊神事「花祭り」|豊橋幸校区自治会


 新たな故郷の花祭りのお話し(豊橋市西幸町「御幸神社」)|愛知県


※「花祭」のことは、社会科副読本『かがやく豊橋』にも載録されています(豊橋市教育委員会、「花祭りを守る」「御幸神社の花祭り」、『小学校社会科副読本 3・4年 かがやく豊橋 令和4年度版』、共和印刷(株)、令和4年4月1日、179~180頁)。


御幸神社(豊橋市西幸町)


御幸神社年中行事(1月4日は花まつり)


岩西開拓団の開拓記念碑(豊橋市西幸町)


天伯山神社(豊橋市天伯町)


「土に挑む男」の像(豊橋市天伯町)


豊川用水のあらまし

 豊橋市を中心とする愛知県東三河地方は、気候条件(温暖である)や産業立地条件(中京・京浜市場へのアクセス性が良い)に恵まれながらも、水源に乏しく、水不足が産業発展の大きな課題となっていました。特に、大きな河川がない渥美半島や豊橋市南部地域(高師原・天伯原)では、農業用水も雨が頼り。人々は水不足と日照りに悩まされ、作物を育てるのに大変苦労していました。

 そんな郷土の人々のために、豊川から灌漑用水を引くことができないか?と考えたのが、渥美郡(現在の田原市)出身の政治家・近藤寿市郎(後に県会議員、衆議院議員、豊橋市長を歴任)でした。

 1921年(大正10年)のインドネシア視察で目にしたオランダの農業水利事業をヒントに、豊川上流の鳳来町(現在の新城市)にダムを建設し、貯めた水を東三河地方に導水するという構想を抱きました。実現のため郷土の人々に構想を説き、自らも国等に精力的に働き掛けた結果(先の大戦などでの紆余曲折がありましたが)、1949年(昭和24年)、宇連ダムを皮切りに国営事業として豊川用水の建設工事が始まりました。1958年(昭和33年)には農業用水の他に水道用水と工業用水の開発が追加され、寿市郎の着想から約半世紀後の1968年(昭和43年)、豊川用水はついに完成しました。

 完成後、豊川の水は渥美半島、静岡県湖西市まで行き渡り、この地方の農業、工業における今日の発展の礎となりました。農業面では、都市近郊という地域性を生かした露地畑のキャベツ、ブロッコリーや、施設園芸作物のきく、トマトなど収益性の高い営農がなされ、全国トップクラスの生産額を誇る日本有数の農業地域に発展しています。

 ちなみに、令和2年の市町村別農業産出額を見ると、1位が宮崎県都城市(864.6億円)、2位が愛知県田原市(824.7億円)、3位が北海道別海町(662.6億円)、4位が茨城県鉾田市(640.0億円)、5位が新潟県新潟市(569.9億円)の順で、愛知県豊橋市も第13位(387.1億円)にランクインしていることから、豊川用水の恩恵がいかに大きいものであるかがよくわかります。


 水資源機構豊川用水総合事業部


 豊川用水|愛知県


 豊川用水|あいとよネット/愛知・豊川用水振興協会


 豊川用水事業|水土の礎/農業農村整備情報総合センター


 令和2年市町村別農業産出額(推計)|農林水産省



近藤寿市郎の像(豊橋市多米町字赤岩山)


宇連ダム(新城市)


豊川用水(豊橋市東七根町)


キャベツ畑から資源化センターを望む(豊橋市東七根町)


道の駅とよはし


「あぐりパーク食彩村」の賑わい


社会科副読本『かがやく豊橋』で学ぶ、豊川用水

 豊橋市教育委員会が作成した小学校3・4年生向けの社会科副読本『かがやく豊橋』は、豊川用水の整備の歴史(地域の発展に尽くした先人が、様々な苦心や努力により当時の生活の向上に貢献したこと)を次のように詳しく伝えています(第6章第4節「「6.きょう土の発てんにつくす(4)高師・天伯原の開たくと豊川用水」に掲載)。



大島ダム(新城市)


(今回の舞台)



(2023年03月05日)



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